佐竹氏の出自
蘆名義広(あしなよしひろ)は、常陸の戦国大名・佐竹義重の次男ですが白河氏の養子となり、後に蘆名盛隆の継嗣が早世したことから蘆名氏の当主となった人物です。
実の兄は佐竹氏を継いだ義宣であり、伊達政宗とも縁戚にありながら奥州の覇権を賭けた戦いを繰り広げると、浮き沈みの激しい武将人生を歩みました。
兄の義宣が関ケ原の戦いで西軍寄りの姿勢を見せたこともあり、義広も連座して領地を失うなど不可抗力な不運にも見舞われました。
蘆名氏の後継者争い
義広は天正3年(1575年)に生まれましたが、天正7年(1579年)には白河氏の養子に出されて白河義広を名乗り、わずか5歳にして白河氏の当主になりました。
天正12年(1584年)頃、蘆名氏の当主・盛隆が殺害される事態が発生し、盛隆の子の亀王丸が僅か生後1ヶ月で当主の座につきましたが、この亀王丸も3年後には病死し、蘆名氏は当主がいない状態に陥りました。
ここに蘆名氏の跡目を巡って伊達政宗と佐竹義重の争奪戦が勃発し、蘆名氏の古くからの家臣らはこれまでの関係が強い伊達政宗の実弟・小次郎を迎えることを企図しました。
一方で金上盛備らが佐竹氏の出自を持つ義広を擁立しようと争い、天正15年(1587年)にこれに勝利した佐竹派が当主として蘆名義広を実現させました。しかし義広は未だ13歳に過ぎず、名目上の当主に過ぎませんでした。
蘆名氏の消滅
また同じ天正15年(1587年)に蘆名氏が越後方面において支援していた新発田重家が上杉景勝の反撃を受けて滅ぼされ、蘆名氏の勢力は弱体化していました。
更に天正17年(1589年)には政宗の権勢が増し、それまで蘆名氏が配下としていた猪苗代盛国が伊達勢へ鞍替えする状況が発生しました。
続く伊達勢との決戦となった摺上原の合戦では、蘆名氏の重臣であった富田氏実らの家臣の離反及び、金上盛備、佐瀬種常・常雄ら蘆名氏の重臣が討ち死にする大敗を喫しました。
義広と僅かな供周りのみは戦場を離脱したものの、居城・黒川城を放棄して佐竹氏の領地・常陸に落ち延びました。
こうして黒川城は伊達勢に奪われ、多数の蘆名家家臣らが伊達氏に臣従し、大名としての蘆名氏は領地を失って消滅しました。
本家・佐竹氏の与力として復活
しかし翌天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原・北条攻めに際して、秀吉に下った政宗は簒奪した蘆名領を取り上げられることになりました。
蘆名氏の旧領・会津には蒲生氏郷が入り、義広は佐竹氏の与力の扱いとされて佐竹氏の領地にほど近い常陸・龍ヶ崎4万石、後に江戸崎4万5,000石を与えられました。
ここに大名家として蘆名は復活を果たすことになり、義広はこの頃に盛重(もりしげ)に改名したとされています。
角館城下町の整備に尽力
ところが秀吉没後の慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の合戦に際し、兄である佐竹義宣が西軍に与したことから、盛重も改易されることになりました。
慶長7年(1602年)に父・義重、兄・義宣とともに減封されて新領となった秋田入りすると、盛重から義勝(よしかつ)に名を改めて、元は戸沢氏が治めていた角館1万6,000石を与えられました。
その地で今に残る角館の城下町を整備しました。
角館の魅力 → 公式サイト
これは古城山の南部に新しい城下町を造成して移したもので、道路の拡幅を行うと同時にその配置に工夫を施し、下水設備や火事への配慮をした街造りを行うなどの領国経営に努めました。
こうして晩年は領地の整備に尽力し、寛永8年(1631年)に享年57で病没して激動の人生を終えました。
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