過酷な航海とヨーロッパ歴訪、そして帰国
1582年(天正10年)2月20日。寒風吹きすさぶ長崎港の波止場から南蛮船に乗り込み、大海原へと旅立った天正遣欧少年使節団。
千々石ミゲル、伊藤マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノの4人は、年端13、4の少年だった。
当時の船旅と言えば命がけのこと。嵐や凪、熱病など生死の境に追い詰められながらの航行は2年半続く。
マカオやマラッカ、ゴアを歴訪して、ようやく欧州に上陸したのは1584年(天正12年)。
ヨーロッパ到着後、各地で歓待された彼らは、フェリペ2世やローマ法王グレゴリオ13世といった名だたる人物に謁見している。
幼少の頃に受洗し、キリスト教聖職者になるための教育を受けてきた彼らにとって、西洋のキリスト教世界は大きな刺激となったことだろう。
キリストの教えを日本中に広めることを夢見て、1590年(天正18年)7月、ようやく祖国日本へと戻った4人。
長崎出航からすでに8年半が経過していた。
しかし、時は豊臣秀吉の世。1587年(天正15年)に出された伴天連追放令によって、キリシタンへの風当たりは強くなり始めていた。
イエズス会への入会と聖職者としての歩み
帰国後間もなく、使節団の4人は在俗の身を捨てイエズス会に入会する。そして、揃って天草河内浦のノビシャド(修道院)で修道生活を送った。
伊東マンショの母・町上は、キリシタン排除が深刻化する中、マンショがキリスト教の信仰を続けることに強く反対したというが、彼らの決意は固かったのだろう。
1601年になると、マンショとジュリアンはマカオ学院へと留学。神学や応用倫理神学などを学び、1604年に帰国している。
その後、マンショ、ジュリアン、マルチノの2人は、1606年に副助祭、1607年に助祭へと叙せられ、1608年には司祭にまで昇りつめた。
ヨーロッパに派遣された天正の頃から数えて、30年近くの歳月が経とうとしていた。
ミゲルの棄教と謎のロザリオ
使節団として、聖職者として、共に歩んできた4人だが、司祭へと叙せられた中に千々石ミゲルは含まれていない。
実はミゲルはイエズス会を脱会している。つまり棄教したのだ。日本イエズス会名簿には1593年以降、ミゲルの名はない。
ミゲルはイエズス会を離れた後、清左衛門と名乗り、大村喜前に仕えた。大村喜前といえば、もとはキリシタン大名であったが、幕府の禁教令以後は日蓮宗に改宗し、キリシタン弾圧の立場に転じた人物だ。
ミゲルは、キリスト教の信仰を捨てただけでなく、キリスト教は邪宗であると説き、キリシタン迫害の先鋒となっていく。
使節団のうち、なぜミゲルだけが違う道を辿ったのか詳しいことはわかっていない。
しかし、最近、長崎県諫早市においてミゲルとその妻のものと思われる墓の調査が行われた際、中からカトリックの祈りに使うロザリオが発見された。
棄教したはずのミゲルだったが、実は終生キリストの教えを支えにしていたのではないかとの見方も出てきている。
マンショ、マルチノ、ジュリアンそれぞれの最期
伊東マンショは司祭として、小倉や萩などを巡り布教を続けた。しかし、各藩はすでに宣教師追放を進めており、平穏に滞在できた場所は少なかったと想像できる。
下関や中津から追われ、ようやく長崎へと戻ったマンショだったが、疲れ果てた体はすでに病魔に侵されていた。司祭叙階からわずか4年、長崎のコレジオにて息を引き取る。
その遺体は長崎市内にあったミゼリコルディア(慈善病院)付近に埋葬されたと推測されるが、確証はない。
ただ、マンショの死から12年後に亡くなった母・町上の墓碑横には、誰のものともわからない小さな墓碑が寄り添うように建っているという。戒名には「妙春」の文字。あるいはマンショのものかもしれないと土地の人は言う。
マンショの死後、マルチノはマカオへと追放されている。かつて使節団として華やかな見送りを受けたあの長崎の港から出航したそうだ。再び日本に戻ることはなく、1629年に病死。
中浦ジュリアンは、キリシタン弾圧が過熱する中でも島原や小倉などで布教活動を続けていたが、1632年ついに捕縛される。
長崎の西坂の丘で、逆さ吊りという最も残酷な刑を受け殉教。彼は刑場に立った時、「私はローマを見た中浦ジュリアンだ」と言い放ったという。
天正遣欧少年使節四人の後半生を辿ってみた。マンショ、マルチノ、ジュリアン、ミゲル、それぞれを守教、殉教、棄教という立場で語るのは簡単だが、それだけでは彼らの人生をひも解くことはできない。
天正十二年二月。港を離れる南蛮船の甲板から手を振る四人の少年。あどけない瞳に映っていたのは、再び自分たちを温かく迎えてくれると信じた故郷の風景だっただろう。
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