岩見重太郎とは
岩見重太郎(いわみじゅうたろう)とは、父を殺されその仇討ちのために各地を旅している道中で化け物退治を行い数々の武勇伝を打ち立て、天橋立においてついに仇討ちを成し遂げた伝説の剣豪である。
その後、叔父の養子となり豊臣秀吉・秀頼に仕え、大坂の陣に参戦したが冬の陣において大失態をやらかし「橙武者(だいだいむしゃ)」と嘲りを受けた。
その名誉挽回に夏の陣では何人もの敵兵を倒して剛勇振りも見せるも、力尽き壮絶な最期を遂げた武将であった。
前半生は化け物退治と仇討ちの剛勇の武将として名を馳せたが、大坂の陣ではやらかしてしまった伝説の剣豪・岩見重太郎について迫ってみた。
出自
岩見重太郎(いわみじゅうたろう)と薄田兼相(すすきだかねすけ)は同一人物だとされている。
岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役を務めた岩見重左衛門の次男として生まれた。(※生年については不明である)
山城国(現在の京都府南部)又は筑後国(現在の福岡県南部)の出身とされ、小早川隆景に仕えた。
しかし父の重左衛門が同僚の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門によって殺されてしまった。
重太郎は祖父に育てられ、父の仇討ちを誓って剣術修業を重ね「兼相流柔術」や「無手流剣術」という流派を興し、諸国を廻り父の仇3人を探す旅に出たのである。
狒々(ひひ)退治の伝説
ある年の4月(6月とも)、越後から越中に入った重太郎が黒河という地を訪ねると、祭りだというのに村中が静まり返っていた。
訳を尋ねると、毎年祭りになると1人の未婚の女を宮の神様に献じないとならず、今年は村の旦那さん(黒田家)の娘の番ということで静かだったのである。
重太郎は「神様が人を食うなどあるものか?自分が身代わりになる」と自ら人心供養の箱に入り、村の若衆に山のお宮へと運ばれた。
深夜となり、強風が吹いたかと思うと足音が箱に近付き、蓋に手がかかった。
重太郎はここぞと斬りつけ戦闘が始まった。その激戦は3日間も続いたというが、最後は重太郎がとどめを刺した。
それは恐ろしい化け物で、頭は猿で体は獅子の如く、尾は大蛇のようだったという。
(※一説には狒々(ヒヒ)、ショウジョウとも)
しかし、重太郎はこの激闘で化け物の毒を受けてしまった。
若衆がやって来た時、重太郎は死人のように倒れ、その傍らに化け物が死んでいた。
黒田家に運ばれた重太郎は懸命の介抱によって回復し、能登の方へと修業の旅を続けたという。
これを記念して村の祭りにヨータカ(夜高)の習わしがあるのだという。
この他にも大坂の住吉神社でも重太郎が狒々(ヒヒ)を退治したという伝承が残されている。
瀬戸の滝の大蛇退治
現在の長野県喬木村、昔この地方の瀬戸の滝には大蛇が住み、誰も近寄らなかったという。
大蛇は冬の間は淵の底に眠り、春になると動き出し、特に梅雨や台風の頃には暴れまくった。
そのためこの地方の人々は毎年のように大蛇に洪水を起こされ、田畑を流されてしまい困り果てていた。
そこで村人は集まって相談し、誰か武芸者に頼んで大蛇を退治してもらおうと高札を掲げた。
そこには「瀬戸の滝の大蛇を退治した方には賞金として五拾両を差し上げます。我こそはと思われる方は申し出てください」と書かれていた。
十両盗めば首が飛ぶという時代に五拾両はとんでもない大金だった。
何人もの腕に覚えがある者たちが大蛇に挑んだが、誰一人として瀬戸の滝から帰って来る者はいなかった。
そんな時、編笠を被った一人のとても強そうな武士がこの地を通りかかった。
ただならぬ雰囲気を持ち、頼もしく隙がない態度の武士に村人が大蛇退治を頼んだ。
するとその武士は丁寧な態度で「それなら拙者にお任せくだされ、必ず大蛇を退治してみせましょう!」と引き受けてくれた。
その翌日に武士は瀬戸の滝に向い、暫くすると川の水が真っ赤に染まって流れてきた。
村人が驚いて眺めていると、その武士が返り血を浴びて川上から戻ってきた。
大蛇を退治した武士は「拙者は金が目当てで大蛇を退治したのではない。皆さんの難儀を救いたいと思ったからだ。でもせっかくだからこれだけ頂こう」と、五両だけを受け取って立ち去ったという。
暫くしてから、この武士は風越山の狒々(ヒヒ)を退治した有名な剣豪・岩見重太郎であったことがわかったという。
籠神社の狛犬の除霊と仇討ち
仇討ちと武者修行の旅をしていた重太郎は、父の仇の3人が天橋立付近の京極家に匿われているという知らせを耳にした。
天正18年(1590年)重太郎は3人を匿っていた京極家から仇討ちの許可を得て、天橋立の宮津を訪れた。
その付近にあった籠神社の狛犬には魂が宿っているとされ、不意に天橋立の松林に出現し通行人に怖がられていたという。
その話を聞いた重太郎は狛犬の鎮霊を決意し、松林で狛犬を待ち伏せ、不審な音が聞こえた方向に一太刀浴びせた。
その際、狛犬の前足が重太郎に斬られたため、狛犬は出歩かなくなったと伝わっている。
そのため、籠神社の狛犬の前足には現在でも修復痕が見られる。
また、天橋立の途中には重太郎が刀の切れ味を試したとされる「岩見重太郎試し切りの石」がある。
その後、重太郎は父の仇である広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を斬り、念願であった仇討ちを成し遂げた。
秀吉に仕える
見事本懐を遂げた重太郎は叔父・薄田七左衛門の養子となり、薄田隼人(すすきだはやと)・薄田兼相(すすきだかねすけ)と名を改めて、豊臣秀吉に仕官し秀吉の馬廻り衆として仕えた。
秀吉の死後は豊臣秀頼に仕え、慶長16年(1611年)には禁裏御普請衆となり3,000石を領したとされている。(後に5,000石に加増されている)
橙武者
慶長19年(1614年)大坂方と徳川家康との関係が悪化し、家康は全国の諸大名に豊臣征伐(大坂冬の陣)を発令した。
※ここからは、薄田兼相(すすきだかねすけ)と記させていただく。
秀頼の近習であった兼相は全国から集まった浪人衆たちを指揮する立場となり、冬の陣では700の兵を率いて大坂湾に近い木津川口砦の博労淵(はくろうぶち)の守備を命じられた。
そんな中、幕府軍の蜂須賀至鎮による博労淵砦への攻撃が開始されるのだが、なんとこの時、兼相は前日から遊廓に通っていて砦を留守にしていた。
主将不在の兼相の守備隊は当然統率が取れないままにあっさりと倒されてしまい、博労淵砦は陥落してしまった。
この同じ日、大野治胤が率いていた水軍も悪天候で敵を甘く見たため、九鬼守隆らに敗北してしまい、大坂城はさらなる危機に陥ってしまう。
この知らせを聞いて豊臣家は、兼相と治胤を指して「橙武者(だいだいむしゃ)」と揶揄するようになってしまった。
橙とは、正月飾りに使う蜜柑のことで、酸味が強く飾りくらいにしか使えないという意味で「見かけ倒し」という皮肉を込められていた。
大事な戦の最中に油断した兼相の落ち度は、弁明の余地がなかった。
だが、冬の陣は真田信繁(真田幸村)の真田丸での奮戦によって和睦となった。
壮絶な最期
その翌年、大坂城は堀を埋められて丸裸状態にされてしまい、大坂夏の陣となった。
冬の陣での名誉挽回をかけて兼相は後藤又兵衛・明石全登・木村重成らと共に先陣として出陣した。
しかし大坂方の決戦となる道明寺の戦いにおいて、後藤又兵衛の軍は霧のために援軍が間に合わず、8時間孤軍奮闘したが又兵衛は討死してしまった。
遅れて到着した兼相は陣頭指揮を執り、遊廓事件の汚名返上のために獅子奮迅の働きを見せ、幕府軍を徐々に押し返していった。
兼相は槍で奮戦し、槍が折れたら剣に持ち替えて次々と敵兵を斬り伏せていった。
そこに川村新八という男が現れて馬上の兼相を倒そうとした。兼相は新八の攻撃をよけて反撃したが、兜によって刀がはじかれてしまった。
兼相に組み付いて馬から振り落とそうとする新八、そこに水野勝成配下の中川島之介が兼相の馬を槍で突き、馬がのけぞって兼相は馬から落ちてしまう。
それでも兼相は新八と島之介の2人を押し倒した。そこに水野勝成の小姓・寺島助九郎が兼相の足を斬り落とし、体制を崩された兼相はその場に倒れてしまった。そして新八と助九郎がその隙に兼相を刺して、とどめに新八が兼相の首を討った。
無双の剣豪らしい壮絶な死に様であったという。
おわりに
岩見重太郎(薄田兼相)の生涯は、そのほとんどが講談などの民間伝承から端を発する話によって知られている。
岩見重太郎は架空の人物だとされる説もあるが、薄田兼相は豊臣秀吉・秀頼に仕えた実在の武将である。
ヒヒや大蛇退治を行い、父の仇討ちを成し遂げた岩見重太郎(薄田兼相)は大坂冬の陣でやらかしてしまったが、夏の陣では持ち前の剛勇振りを見せて伝説の剣豪となったのである。
こんな平安時代のような逸話を持つ(化け物退治)の戦国武将がいたんですね。
驚きと大坂の陣でやらかすという人間性も持ち合わせているのが面白い。
マジでこんな平安時代の化け物退治の逸話を持つ武将が戦国時代にいたんですね。
大坂冬の陣でやってしまうのも信憑性があるよね。まさに伝説の剣豪の一人