昨今、戦国四方山話として様々な逸話や伝説が取り上げられているが、その中でも強烈な話の一つが「黒田官兵衛の天下統一論」だ。
ざっくり説明すると、「関ヶ原の戦いをしている間に、黒田官兵衛が天下を横殴りしようとしていた」という話である。
今回は、この話は具体的にどういった内容なのか、どこからこの話が生まれたのか、信憑性についてなどを検証したい。
黒田官兵衛 天下統一論について
黒田官兵衛の天下統一論は、概ね以下のような内容となっている。
① 黒田官兵衛は、石田三成と徳川家康との間で戦が起こることを、事前に察知する。
② その戦は大規模な戦となり、一ヶ月から二ヶ月程度はかかると予想する。
③ 互いに戦で消耗しきった後に挙兵して、一気に天下を取る策を思いつく。
④ 全財産をはたいて兵士を集め始める。
⑤ 徳川方に怪しまれないように息子の⾧政を徳川陣営に参加させ、さらに家康の養女を嫁にもらうように動く。
⑥ 関ヶ原の戦いが始まる時期を読み、始まる前に九州統一に動く。
⑦ 家康には「こちらでも敵勢力を攻めるが、奪った土地は頂きたい」と申し入れ、九州統一のために南下する。
⑧ 九州統一後、そのまま中国勢を仲間にして関ヶ原の勝者を叩くという計画だったが、たった半日で関ヶ原の勝敗が決してしまう。
⑨ 関ヶ原の戦いから還ってきた息子・⾧政に、早く決着がついた理由を尋ねると「家康様に直接御手を差しのべてもらえるような、一番の武功を立てた」と喜びながら伝えられる。つまり、皮肉にも息子・長政の活躍が大きかった。
⑩ 官兵衛はそれを称えながら「その時の手はどちらだったのか?」と訪ねる。
⑪ ⾧政が「右手だった」と答えると、官兵衛は「ならば空いた左手で家康を刺せただろう」と答え、⾧政を驚愕させた。
大筋ではこのような流れとなっており、官兵衛は関ヶ原の戦いの裏で天下統一のために動き出していたが、さすがに半日で終わることは予想できなかったようだ。
官兵衛が、吉川広家に宛てたとされる手紙にも「関ヶ原の戦いが一ヶ月も⾧引けば、中国地方にも攻め込んで戦う予定だった」といった旨の記述があるため、官兵衛の天下統一論は十分有り得た説となっている。
黒田官兵衛 天下統一論は、どこからきたのか?
そもそも、官兵衛の天下統一論はどこから生まれたのだろうか?
これは江戸時代中期に編纂された逸話集『常山紀談』(じょうざんきだん)が元になっている。
しかし『常山紀談』は逸話集であることから、史実性よりも派手さや面白さが重視された逸話が集められており、信憑性は低いとされている。
さらにその『常山紀談』の元ネタと考えられる、息子・⾧政の遺言状でもある『黒田家文書』の原本が近年発見されており、この『黒田家文書』は父・勘兵衛を大きく見せるために、虚実が多く入り混じっているという。
『黒田家文書』における勘兵衛の記述は、簡潔にまとめると以下のような内容になっている。
・官兵衛が西軍に見方すれば、間違いなく加藤清正は味方になる。
・九州の大名が結束して西上し、途中で中国地方の軍勢も加われば、10万騎の大軍勢となる。
・今回は関ヶ原合戦のような寝返りは起こらず、家康に情けない敗北はしない。
・仮に勝てなくとも、島津が大坂城を守り、⾧政と宇喜多が伏見を支えれば、家康は西へ攻めてこれない。
・古代中国の英雄である項羽、韓信、諸葛孔明が東軍に加わっても負けないだろう。
・織田信⾧・武田信玄・上杉謙信が蘇って家康についたとしても勝てるだろう。
大言壮語すぎる部分が目立つが、これは長政が「父・勘兵衛がいかに優れた人物だったか」ということをアピールしたかったためと考えられている。
つまり、「官兵衛の天下統一論」は、虚実の入り混じった文書を元に、さらに虚構を重ねた文書から生まれたということになる。
実際に官兵衛が吉川広家に宛てた手紙があることから「勘兵衛の天下統一論」の全てが虚構とも言い切れないが、信憑性の低い逸話と言えそうだ。
参考 : 『常山紀談』『黒田家文書』
この記事へのコメントはありません。