天下人となった豊臣秀吉は、城攻めに大変長けていました。
その中で有名な城攻めが「高松の水攻め」「三木の干し殺し」「鳥取城の飢え殺し」の三大城攻めです。
特に「鳥取城の飢え殺し」は史上最悪の籠城戦とも呼ばれ、地獄絵図となりました。
今回は、その責任をとって自害した毛利家の武将・吉川経家について解説していきます。
鳥取城とは
鳥取県鳥取市東町にある鳥取城跡地は、背後にある久松山に本丸を持ち、山の麓に二の丸や三の丸が築かれた梯郭式平山城で、戦国時代には久松山の頂上に独立式望楼型3重3階の天守がありました。
現在は当時の建物は残っておらず、石垣・堀・井戸などの遺構が残っています。
戦国時代から江戸時代にかけて増改築が繰り返されているため、それぞれの時代の遺構が残っています。
時代ごとの特徴を見ることができ、石垣が崩れるのを防ぐために積まれた巻石垣がある天球丸跡など、鳥取城でしか見られない石垣もあり、広い敷地と相まって見ごたえがある場所です。
ちなみに「天球丸」というのは巻石垣が天球のようだからという理由ではなく、関ヶ原の戦い後に鳥取城主となった池田直吉の姉・天球院が住んでいた場所だからです。
吉川経家とは
吉川経家(きっかわ つねいえ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将で、毛利家の家臣であった人物です。
1547年に石見吉川氏の当主・吉川経安の嫡男として生まれ、1560年に元服しました。
しかし、その翌年には石見の国人であった福屋隆兼が尼子氏に寝返り、居城の福光城(島根県大田市温泉津町福光)を攻められました。まだ経家は14歳ほどの少年でしたが、父・経安とともに約5000の兵を迎撃しました。
秀吉による「鳥取城の兵糧攻め」が行われた際に、応援要請に従って鳥取城へと入城したのです。
鳥取の飢え殺し
秀吉による鳥取城攻めは、前述したとおり「鳥取の飢え殺し」と呼ばれ、三大城攻めの一つに数えられています。
織田信長が中国征伐を開始し、1581年に羽柴秀吉が中国征伐軍として因幡国まで侵攻していました。
この時、鳥取城の城主を務めていた山名豊国は信長に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続により追放されました。
城主を追放した森下らは、吉川元春(毛利元就の次男)に支援を要請し、元春もこれを受け入れましたが、派遣した家臣の牛尾元貞が戦闘により負傷したため、吉川一門であり文武両道に優れた経家が鳥取城へと派遣されたのです。
1581年2月、経家が鳥取城へ入城した際には山名氏の配下約1000人、毛利氏の配下約800人、近隣から集まった籠城志願の農民兵が2000人といった兵力でした。
経家はすぐに籠城の準備を始めましたが、秀吉の密命によって因幡国の米は若狭国の商人によって高値で買い漁られており、鳥取城内にあった兵糧米も城兵が売り払ってしまっていたため、兵糧の蓄えがおよそ3か月分しかなく、長期の籠城戦は困難な状況でした。
同年6月、経家の予想よりも早く秀吉の軍が到着、その数およそ20000人。翌月には鳥取城は包囲され攻撃が開始されました。
秀吉軍は参謀・黒田孝高の策により手を出さずに包囲し続け、鳥取城は一月ほどで兵糧が尽き、その後はまさに地獄絵図だったと言います。
兵糧が尽きた兵たちは城内の植物や家畜を食べ始め、それが尽きるとついに城内には餓死者が出始めました。
すると今度は、餓死した者たちを食べ始めたのです。親兄弟であろうとも関係なく食べ、さらには息があっても小刀などで肉を切り喰らいました。特に脳みそは奪い合いになるほど人気だったようです。まさに地獄です。
この兵糧攻めは4か月ほど続き、ついに経家は森下・中村と相談し、城兵の助命を条件に降伏することとなりました。
帰還させると言われたのに自害
城兵の助命を条件に降伏した経家ですが、秀吉は経家の奮戦を称え「切腹は森下道誉と中村春続だけでよい」とし、経家を助命・帰還させるとの意思を伝えました。
しかし、経家はそれを拒否したのです。
あまりにも頑固な経家に困った秀吉は、仕方なく信長に報告し、信長は経家の切腹を許可しました。
経家は鳥取城へ入城する際に、自分の首桶を持参したとも伝えられています。最初から敗戦・降伏した際には自害するつもりだったのかもしれません。
10月25日早朝、「稽古もできなかったから無調法な切りようになろう!」と大声で言ってから家臣たちが見守る中で切腹し、福光小太郎・若鶴甚右衛門・坂口孫次郎らが殉死しました。
先だって残されていた遺書は5通だったとされており、その内の3通が現存しています。
終わりに
吉川経家の首は秀吉のもとに届けられ、その後、信長のもとに送られて丁重に葬られたそうです。
吉川元春の息子・広家のもとに届けられた遺書には「毛利と織田が激突したこの時に切腹できることは、末代までの誉と思います」というような内容が書かれていました。
子供たちにあてた遺書は、子供たちが読みやすいように仮名が多く使われ「200日堪えたが、兵糧が尽きてしまった」「みんなを助けて吉川一門の名を上げた」といった内容で、最後は「この幸せな物語を聞いてほしい」と結んでいたそうです。
戦国の世を生きて、苦しい戦いの末に命を散らせた吉川経家。
鳥取城に行った際は、彼のことを少し思い出してみてください。
参考 :
太田牛一 榊山潤「信長公記」ちくま学芸文庫
楠戸義昭「戦国武将名言録」PHP研究所
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