戦国時代において「築城の名手」として知られる人物が三人いる。
その人物は、藤堂高虎、加藤清正、そして黒田官兵衛である。その三人の中でも、建てた城の数が特に多いのが藤堂高虎だ。
高虎が手がけた城は全国各地に残っているが、その特徴として有名なのが「高石垣」である。
伊賀上野城にある高さ約30メートルの高石垣は、大阪城と並んで日本一の高さを誇る。
今回は、藤堂高虎が関わった城について詳しく解説していこう。
目次
築城デビューは「安土城」?
高虎が築城の技術をどこで学んだのかは定かではない。
しかし、彼が最初に関わったとされる城は、織田信長の名城として知られる安土城(滋賀県)とされている。
高虎は近江(現在の滋賀県)出身であり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が近江の長浜を治めていた頃には、秀吉の弟である秀長の家臣となっていた。
信長の城の築城には羽柴家も関わっていたはずなので、安土城が高虎の築城遍歴の始まりであった可能性が高いとされる。
「和歌山城」と「猿岡山城」
秀吉が天下統一に邁進していた頃、秀吉の弟である秀長は大和・紀伊・河内の大名となった。
秀長は領地に城を築くことを決意し、その中でも重要な城の一つである和歌山城の普請奉行(工事の管理監督役)に高虎を任命した。これは高虎にとって華々しい築城デビューであり、秀長の庇護のもとでの重要な任務となった。
「和歌山」という地名もこの時に名付けられたと伝わっている。和歌山城の当時の建物は現存していないが、現在でも和歌山城公園として整備されており、多くの人々が訪れることができる。
また、秀長のもう一つの重要な城である大和郡山城(奈良県)の改修にも高虎は参加していたとされている。
さらに同じ頃、高虎は猿岡山城(和歌山県)も築城している。この城は隣にある粉河寺を牽制するために建てられたもので、高虎が城主を務めた初めての城である。
この城は高虎が去った後に廃城となったが、現在でも石碑と曲輪が残されている。
高虎の黒歴史「呪われた赤木城」
1589年、秀長の領地は農民の一揆に悩まされていた。この一揆を鎮める役割を任されたのが高虎であった。
高虎は赤木城(三重県)をその地に築城した。
高虎は他の武将と比べて、あまり残虐なエピソードが残っていない武将である。その高虎の唯一とも言っていい残虐エピソードが赤木城での出来事だ。
高虎は赤木城での落成祝いに一揆勢を招待し、その場で捕らえ、田平子峠で処刑したという。その数は160人とも伝わる。
現在は城跡だけが残っている。
壮大な五角形の仕掛け 「忍者も騙した宇和島城」
高虎が独立大名となり、秀吉から伊予の領地を与えられ、初めて建てた城が宇和島城(愛媛県)である。
この城は、高虎が築城の才能を発揮し始めた城である。
海水を引き込んだ水堀はなんと五角形の形をしている。普通の城の堀は四角形であり、城攻めをする敵もそのように想定して攻めてくる。それを見越して五角形の堀を造り、敵を混乱させようとしたのだ。
実際、江戸時代に偵察に来た忍者が四角形の地図を残したと伝わっており、忍者をも騙したわけである。
「空角の経始(あきかくのなわ)」と呼ばれるこの仕掛けは、築城名人高虎ならではのものである。
宇和島城は天守が当時のまま残っているが、これは高虎が去った後に伊達家が建てたものである。
しかし、縄張り(城の設計)は、高虎が建てた当時のままだと言われている。
海が埋め立てられているが、地図で見ると今でも「空角の経始(あきかくのなわ)」の五角形が確認できる。
朝鮮出兵で建てた城 「順天倭城」
高虎の築城技術は朝鮮半島でも発揮された。
文禄・慶長の役の際、日本軍は半島に数々の城を築いたが、その中の一つが順天倭城(大韓民国)である。
高虎の他に、小西行長・宇喜多秀家が関わり、短期間で築城した。
築城後は小西行長に引き渡され、その後「順天倭城の戦い」が起こっている。
現在でも石垣が残されているようだが、韓国まで見に行くのは少し大変かもしれない。
築城ラッシュ とうとう完成した「今治城」
豊臣秀吉の死去後に朝鮮から戻った高虎は、日本で数多くの城を築いた。
徳川家康の命令により天下普請が行われ、日本全国に築城ラッシュが訪れたからである。
天下普請の第一号である膳所城(滋賀県)で高虎は縄張りを任された。この頃には、高虎の築城の才能は世間に広く知られていたのかもしれない。湖の中に石垣を築くという大胆な城であった。
甘崎城(愛媛県)の改修も行っている。この城は元々村上水軍の拠点の一つで、水軍の城であった。
そして特筆すべきは今治城(愛媛県)である。
この城においても高虎はその才能を遺憾なく発揮した。特に注目すべきは、「層塔型天守」の発明である。
それまでの天守は「望楼型天守」と呼ばれ、構造上の問題から多くの制約を抱えていた。
しかし、高虎が考案した「層塔型天守」はこれらの弱点を克服し、より簡単に高い天守を建造することを可能にした。この新しい天守の形は、その後の城造りにおいて主流となっていった。
また、今治城は日本屈指の海城としても知られている。堀には海水が引き込まれ、海の魚が泳ぐ姿が現代でも見ることができる。
再建された天守は残念ながら「望楼型天守」だが、高虎の銅像も建っているのでぜひ見に行ってほしい。
強すぎるために却下された「篠山城」
天下普請の一つである篠山城(兵庫県)の築城にも高虎は関わった。
縄張りを担当したのであるが、この城には築城名人ならではのエピソードがある。
堀や石垣を造った時点で、幕府が天守の建造を中止したのである。
実際、天守台は残っているが天守は建っていない。幕府が中止した理由は「城の造りが堅固すぎたため」だという。
これは高虎が才能を発揮しすぎたのかもしれない。
伊勢・伊賀で建てた自分の城 「津城と伊賀上野城」
家康の命令により、高虎は伊予から伊勢・伊賀へ領地替えとなったが、これは栄転であった。
ここで高虎は、新しい自分の城を築いた。
津城(三重県)は、高虎の藩政の中心部として造られた平城であり、戦いのための城ではなかった。天守があったかどうかは定かではないが、現在は公園として整備され、高虎を祀る神社が残っている。
伊賀上野城(三重県)は津城とは異なり、日本一の高石垣が残る戦いのための城である。
大坂の陣に備えた城であり、ぐるりと石垣に囲まれている。天守は建築中に落雷により焼失してしまったため存在しないが、現在は再建されたものが存在する。
中は藤堂家の宝物館のようになっており、高虎の兜も残されているので、ぜひ見学してもらいたい。
天下の城 「江戸城、大阪城」にも関わる築城名人
徳川家康にとって、そして江戸幕府にとって最重要の城は江戸城(東京都)であるのは間違いない。
この城の縄張りを任せられたのが高虎であり「最強の要塞を造った」と言われている。
もちろん江戸城には多くの人が関わっているが、縄張りという重要な役割を高虎に任せたということは、家康が高虎を強く信頼していたことを示している。
さらに、大坂の陣で焼失した大阪城(大阪府)の再建も高虎が総責任者として行っている。
ここで高虎は秀吉時代の大阪城を破却し、全てを造り替えた。
大阪城の高石垣は伊賀上野城と並んで日本一の高さであり、今でも高虎の築城技術を確認できる。
おわりに
藤堂高虎が関わった城はとにかく多い。細かく探せばさらに多くの城が見つかるかもしれない。
それほど高虎の築城術は、当時から注目されていたのだ。
しかし、高虎は一つの造り方にこだわる性格ではなかったようだ。城を造るたびに新しいことにチャレンジしている。
この臨機応変さが、戦国時代を生き抜いた高虎の人生にも繋がるのかもしれない。実際、彼は何人もの主君を渡り歩き、江戸時代まで生き残っている。
参考文献:歴史街道2017年7月号
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