岸岳末孫(きしだけばっそん)とは、佐賀県唐津市にある岸岳城の遺構にまつわる逸話です。
豊臣秀吉による突然の廃城命令で、壮烈な殉死を遂げた家臣たちの怨念が残る地とされ、地元の方々から畏敬の念をもって語り継がれています。
岸岳城の築城と波多氏誕生
岸岳城は、佐賀県唐津市にあった山城です。平安時代(12世紀頃)に松浦持(まつうら もち)によって築かれました。
この山には古くから鬼が住んでいたという伝説があり、別名「鬼子岳城」とも呼ばれていました。
伝説によれば、平安時代に反乱を起こした平忠常(たいらの ただつな)の仲間である稲江多羅記(いなえ たらき)の子孫が、この山で略奪を繰り返しており、その鬼を退治しに来たのが、後に松浦党の祖となる渡辺綱(わたなべの つな)の一族だったといわれています。
その曾孫にあたる松浦持が波多の地を与えられ、岸岳城を築城しました。
鬼子岳山頂部に築かれたこの城は、唐津湾への水運を支配する重要な拠点として機能しました。
波多の地を与えられた持は、姓を「波多」と改め、地域の支配を強化し、波多一族の基礎を築きました。
松浦党は、平安時代から戦国時代にかけて活動した武士団の連合体で、48の支族に分かれていましたが、波多氏はその中でも重要な一族であり、岸岳城を中心に勢力を拡大し、以後17代にわたり約400年続くことになりました。
豊臣秀吉の天下統一 「突然の廃城」
戦国時代末期、九州地方は肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏の三大勢力がしのぎを削っていました。
波多氏は龍造寺氏との政略結婚で結びつきを強めますが、沖田畷(おきなわて)の戦いで龍造寺隆信が島津氏に敗れ、戦死してしまいます。
その後、豊臣秀吉により、九州が平定されました。
天下統一を果たした秀吉は、いよいよ朝鮮出兵を行います。
岸竹城17代当主・波多親(はた ちかし)も朝鮮出兵(文禄の役)にて兵をあげますが、軍令違反が秀吉の逆鱗にふれ、所領を没収されてしまいました。
こうして、波多氏の居城として約400年間続いた岸岳城も、あえなく廃城となったのです。
朝鮮出兵での軍令違反とは
波多親は、龍造寺氏の名代である鍋島直茂(なべしまなおしげ)の配下として出兵しましたが、あくまで独立した大名として振る舞い、出立日を勝手に変更したり、鍋島の陣を離れて独自の陣を構えたりしました。
また、釜山周辺の港の守りに留まり、戦闘に積極的に参加しなかったことが「卑怯なふるまい」として、不興を買ったといわれています。
しかし親には、日本からの食糧、兵器、弾薬などの輸送路を確保するために、朝鮮海峡沿岸の制海権を死守するなど、善戦した記録も残っており、最初から秀吉には「腹心であった寺沢志摩守(てらざわ しまのかみ : 寺沢広高)に、所領を与える狙いがあった」ともいわれています。
帰還のため名古屋城へ向かう船上にて、「上陸かなわず。所領没収の上、直ちに流罪。」との書状を受け取った親は、申し開きもできないまま常陸国(現在の茨城県)に流されました。
その後、常陸国筑波で病死したとされていますが、詳細な没年は不明です。
壮烈な殉死を遂げた家臣たちの伝説が残る「岸岳末孫」
岸岳城の歴史を語る上で欠かせないのが「岸岳末孫(きしだけばっそん)」の伝説です。
波多家代々の菩提寺だった瑞巌寺跡に散らばる無数の輪塔は、「旗本百人腹切り場所」と言い伝えられています。
旗本百人腹切り塚~
城跡から離れた場所にある。
墓石の写真を撮り、時代を調べてた。まちまちで、鎌倉~室町っぽいですな。
全てが最初からここにあったわけではなく、集約した感じ。積み方がむちゃくちゃなものがいくつかあるし。元々お寺の跡なので~
今日は仕事~ pic.twitter.com/NhDpwm6qac
— お城めぐりん (@hayabusa1979092) November 27, 2016
主君を失った波多家家臣一同が、秀吉や寺沢志摩守を恨みつつ壮烈な殉死を遂げた場所とされ、その時の辞世の句、数十首が『松浦拾風土記』に収録されています。
秀吉が いかに威勢が強くとも 我念力で家はほろぼす
腰ぬけと 云はつる方もありつらん 軍はせでも志摩は滅ぼす
『松浦拾風土記』
地元の方々は、この場所を「岸岳末孫」と呼び「雑な扱いをすると祟りに遭う」と言い伝えています。
この地が岸岳末孫の地であることは間違いないのですが、松浦拾風土記に残された時世の句が稚拙なところや、自害したとされる日には主君の配流地さえ決まっていなかったことから、真偽の程はあきらかではありません。
波多氏没落後、多くの家臣は帰農したり仏門に入ったりと散り散りになりました。武勇や才能を惜しまれ、寺沢氏や他の大名に召し抱えられて所領を得た者もいましたが、ごく一部でした。
突然、寄るべきものを失い、散り散りに四散した波多家家臣たちの恨みの想いは確かなのでしょう。
現在の岸岳城
岸岳城の歴史と逸話は、地域の文化や伝統に深く根付いており、現代に至るまで多くの人々に語り継がれています。
ご紹介した逸話以外にも、
・秀吉が親の所領を没収したのは、奥方の秀の前があまりに美しかったから。
・親は、流される前に脱出し再起を図ったが、挙兵前に病気で無念の死を遂げた。
・関ケ原の合戦で寺沢志摩守が留守中に、岸岳残存兵が倭寇として反乱を起こした。
など、数々の逸話が存在します。
現在は城そのものはありませんが、岸岳城の遺構には、石垣や堀、旗竿石、古井戸などが残っており、当時を偲ぶことができます。
佐賀県の史跡として登録されており、歴史ファンやハイキングを楽しむ人々に人気のスポットとなっています。
参考文献:山崎猛夫『岸岳城盛衰記 上巻』・『岸岳城盛衰記 下巻』
文 / 草の実堂編集部
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