明智光秀という名前を聞いて、多くの人が思い出すのは本能寺の変でしょう。
織田信長を討った男、裏切り者…。
なぜ主君を裏切ったのか、その動機は未だに謎に包まれています。
今回は、本能寺の変によって波乱に満ちた運命を辿ることとなった光秀の子孫たちと、その後の彼らの歩みについてご紹介いたします。
明智光秀という人物
本能寺の変という歴史的な事件を引き起こした光秀。
その人物像については「冷徹な策士」、「忠義に厚く時代の波に翻弄された悲劇の英雄」など、様々な解釈がなされてきました。
光秀に直接会ったことがある宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には、以下のような記述があります。
・裏切りや密会を好み、刑罰においては残酷で、独善的かつ自己を偽装することに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
・殿内では彼は余所者(よそもの)であり、外来の身であったため、ほとんどすべての者から快く思われていなかった。
ドラマや映画などでの光秀は、激情的な信長とは対象的に「常識的でインテリ」といった人物像で描かれることが多いですが、このフロイスの記述からは、狡猾な人物像が浮かび上がってきます。
光秀の出自や青年期については諸説あり、その動向ははっきりしていませんが、フロイスの『日本史』によれば、信長に仕える直前、将軍奉公衆の細川藤孝(ふじたか)に仕えていたとされています。
信長に仕えるきっかけとなったのは、当時、光秀が細川藤孝と共に将軍・足利義昭と信長の間を取り持つ橋渡し役を務めていたことや、斎藤道三の妻である小見の方(おみのかた)が光秀の叔母だったとされ、信長の正室・濃姫と従兄妹だった可能性があり、血縁関係も要因だったと推測されています。
1582年6月、光秀は信長が宿泊していた本能寺を急襲し、信長と嫡男・信忠を自刃に追い込みました。
この本能寺の変を知った羽柴秀吉は、中国地方から驚異的なスピードで(毛利軍との和解の後、事変から11日後に到着)駆けつけ、光秀は山崎の戦いで敗れます。
秀吉がこの直後に御伽衆の大村由己(おおむら ゆうこ)に書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』には、「いったん勝竜寺城に逃れた光秀が、夜中に密かに城を抜け出し、激しい落ち武者狩りの中を坂本城へ向かった」と記されています。
光秀の最期については明らかではありませんが、秀吉の元に届けられた首級の中に光秀のものがあったとされています。
光秀の嫡子 光慶の最後
光秀に子供が何人いたのかは定かではありませんが、光慶(みつよし ※諱は厳密には不詳)という嫡子が実在したことが確認されています。
本能寺の変が起こった際、光慶は元服を済ませたばかりで若かったため、軍事行動には参加せず、丹波亀山城に残っていたと伝えられています。
その後の光慶については、諸説あります。
・亀山城で本能寺の変を知り、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したという説。
・本能寺の変前から坂本城にいて、山崎の戦い後に城が攻め落とされ、一族と共に自害したという説。
・光慶は生存しており、妙心寺の住職となった僧の玄琳が光慶であるという説。
いずれにせよ、光慶の子孫は確認されていません。
光秀の娘を妻にした、津田信澄の悲劇
読者の皆さんは、津田信澄(つだ のぶすみ)という武将をご存じでしょうか。
信澄の父は信長の弟である信勝(信行)で、信勝は織田家の家督争いで信長と争い、最終的に誅殺されました。
しかし信長は、嫡男の信澄に対しては一切罪を問いませんでした。
その後、柴田勝家のもとで養育され、その優秀さから織田家の中で着実に実績を重ね、やがて信長の右腕的存在となるまでに成長しました。
しかし、明智光秀の娘を妻に迎えたことが、彼に悲劇をもたらすことになります。
光秀の婿となった信澄は、本能寺の変が勃発すると、「光秀の一味ではないか?」と疑われ、織田信孝や丹羽長秀の軍に襲撃され、討ち取られてしまったのです。
現在では「信澄は、光秀の謀反を知らなかった」というのが通説となっています。
光秀の娘 細川ガラシャの生涯とその子孫
光秀には娘が何人かいましたが、最も有名なのが、細川忠興に嫁いだ細川ガラシャでしょう。
実名は「たま(珠/玉)」で、美しく聡明で気の強い女性であったと伝えられており、忠興との間には三男二女をもうけました。
光秀が本能寺の変を起こした際、細川家は光秀に加担することを断り、珠は一時的に幽閉されました。
その後、秀吉の天下となると許され、大坂城下の細川屋敷に戻ります。後にキリスト教の教えに触れ、洗礼を受けて「ガラシャ」と名乗りました。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが始まる直前、忠興は徳川家康に従って上杉征伐に出陣しました。
西軍の石田三成は、この隙をついて細川家から人質を確保しようと、細川屋敷に兵を向けたのです。
しかし、ガラシャは人質となることを拒みました。三成は力ずくで彼女を捕えようとしましたが、ガラシャは自ら命を絶つ決意を固めたのです。
自害が禁じられているキリスト教徒であった彼女は、家老に槍で突かせて生涯を閉じたといいます。(※自害説もあり)
しかし、ガラシャの血脈は武家から公家へと伝わり、最終的には天皇家にまで繋がっていきます。
ガラシャの子のうち、娘の多羅は豊後国臼杵藩主・稲葉一通の正室となりました。後に、多羅の子である信通は、織田信良の次女を正室に迎えました。信良は信長の次男・信雄の四男です。
これにより光秀と信長の血が、思いがけず稲葉家で繋がることになりました。
稲葉家に伝わった光秀の血は、その後、公家の勧修寺家に入り、勧修寺婧子(かじゅうじ ただこ)が光格天皇の※典侍(ないしのすけ)となり、仁孝天皇を生みました。
※典侍とは、宮中の上級女官のことです。天皇の日常生活における秘書的役割を務める者や、天皇の寵愛を受けて皇子女を生む役割を担う者がいたとされています。
この血脈は、今上天皇にまで受け継がれています。
細川忠興とガラシャの長男、忠隆は文武に優れ、前田利家の娘である千代を妻に迎えました。
結局、忠隆と千代は離縁することになりますが、二人の間には4人の娘が生まれました。
この娘たちは、前田利家、細川藤孝、明智光秀といった戦国時代を代表する血統を引き継いでおり、特に長女の徳からその血脈は広がっていくことになります。
徳は西園寺実晴の正室となり、正親町家へと繋がり、女系を経て仁孝天皇の後宮に入り、その血筋は孝明天皇へと受け継がれました。また、徳の血統から枝分かれした家系は様々な経緯を経て、岡山藩最後の藩主である池田章政にも繋がっています。
さらに、章政の孫である博子は元熊本藩主細川家に嫁ぎ、第七十九代内閣総理大臣を務めた細川護熙(ほそかわ もりひろ)を輩出しました。ただし、護熙は系図上の子孫にあたるものの、養子を挟んでいるためガラシャの直系子孫ではありません。
明智光秀の血筋は、光秀の死後も途絶えることなく、武家から公家へ、そして紆余曲折を経て天皇家へと繋がっていきました。
歴史上の大きな分岐点となった本能寺の変を引き起こした光秀の血脈が、現代に至るまで受け継がれていることには、歴史のロマンを感じずにはいられません。
参考文献:高澤等『戦国武将敗者の子孫たち』
竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』
文 / 草の実堂編集部
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