安土桃山時代

細川藤孝 「本能寺の変後に光秀を見限った文武両道のエリート武将」

細川藤孝とは

細川藤孝

細川幽斎像

細川藤孝(ほそかわふじたか:幽斎とも)は、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で、眞島秀和が演じた文武両道の将軍奉公衆で、明智光秀の盟友となった人物である。

和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理など戦国時代最高の教養人でありながら、剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)から剣術を学び、免許皆伝の「一の太刀」を授かった文武両道の武将でもある。

明智光秀の盟友として織田信長に仕えた彼に、「本能寺の変」という歴史的な事件が起こる。

そして「本能寺の変」の後に、光秀から協力の要請が届き、細川藤孝は人生最大の決断を迫られることとなる。

この決断は日本の歴史に大きな影響を与えたと言っても過言ではない。今回はそんな文武両道のエリート武将、細川藤孝について迫る。

生い立ち

細川藤孝(ほそかわふじたか)は、天文3年(1534年)足利将軍家の側近である三淵晴員の次男として、京都の東山で生まれる。

藤孝の生母・智慶院は、室町幕府第12代将軍・足利義晴から下げ渡された女性であったために、藤孝は将軍・義晴のご落胤という説もあった。

藤孝は幼少の頃、母方の父である国学者・儒学者の清原宣賢(きよはらの のぶかた)のもとで、数多くの教養を身に付けたという。

和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理・猿楽と幅広く精通し、武芸では当時日本一の剣豪で、後に剣聖と謳われた鹿島新当流・塚原卜伝に学び、免許皆伝の「一の太刀」を授けられた。

細川藤孝

※塚原卜伝像 (鹿嶋市内)wiki(c)Saigen Jiro 

さらに武田信豊から武田流の弓馬故実を相伝し、波々伯部貞弘(ほうかべさだひろ)と吉田雪荷(よしだせっか)から弓術の印可を得た。

また、当時唯一の古今伝授の伝承者で最高の教養人であり、腕力も強く暴れる牛の角を掴んで投げたこともある怪力で、まさに文武両道という言葉がぴったりな人物であった。

天文15年(1546年)元服の際には、第13代将軍・足利義藤(後の足利義輝)から「藤」の字を与えられて「藤孝」と名乗った。

足利義輝の側近として仕え、天文21年(1552年)に従五下・兵部大輔に叙任、21歳で細川家の家督を相続し、永禄5年(1562年)に沼田光兼の娘・麝香(じゃこう)を正室に迎え、永禄6年(1563年)に嫡男・忠興(ただおき)が誕生している。

永禄の変

藤孝が仕えていた足利将軍家は力が衰退し、京の都は三好三人衆らに主導権を奪われ、復権を狙った将軍・足利義輝が永禄8年(1565年)5月19日に暗殺されてしまうという事件が起きた。(※永禄の変

藤孝は永禄の変が起きた時は別の場所に居たために難を逃れた。

そして兄・三淵藤英らと幽閉されていた将軍・義輝の弟・一乗覚慶(後の足利義昭)を救い出して還俗させた。

足利義昭を将軍にさせるべく、近江の六角氏・若狭の武田氏・越前の朝倉氏へ頼った。

細川藤孝

※明智光秀

そして、朝倉義景に仕えていた明智光秀を通して、尾張の織田信長に助けを求めた。(※この頃、明智光秀は細川藤孝に仕える足軽だったともいわれる

永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて京に入り、藤孝もこれに従った。

信長は三好三人衆や松永久秀を追い出し、藤孝は室町御所を取り戻して義昭を第15代将軍の座につけることに成功する。

織田信長に恭順

義昭と信長の仲が悪くなると、藤孝は義昭を見限り信長に恭順した。

兄・三淵藤英は義昭についたために弟・藤孝の襲撃計画を画策したが失敗に終わる。義昭は追放となり兄・藤英は領土没収の上、明智光秀の預かりとなり後に切腹させられた。

それ以後、藤孝は信長の武将として、高屋城の戦い・越前一向一揆・石山合戦・紀州征伐で武功を上げ、黒井城の戦いでは明智光秀の与力として活躍している(※かつては光秀の上司だったとされる藤孝だが、光秀が出世したことにより立場が逆転している

この頃、藤孝は藤原定家の歌道を受け継ぐ三条西実技から古今伝授を受けていて、当時唯一の伝承者となっている。

天正5年(1577年)信長に反旗を翻した松永久秀を光秀と共に攻めて、久秀を自害させた。

天正6年(1578年)信長の仲介によって嫡男・忠興と光秀の娘・(後の細川ガラシャ)が結婚している。

光秀の与力として丹後の平定に尽力し、信長から丹後南半国を与えられて宮津城を居城とし、光秀との関係がさらに深まっていく。

本能寺の変

細川藤孝

※錦絵 本能寺焼討之図

天正10年(1582年)6月2日、光秀が本能寺の変を起こすと、光秀から藤孝・忠興親子に協力の要請が来た。

旧知の仲であり姻戚関係もあった光秀からの要請であるため、藤孝も思い悩んだのではないかと推測される。

しかし時流を見定めた藤孝は、再三の光秀からの要請を断り剃髪し、幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と号して田辺城に隠居した。

そして家督と宮津城を嫡男・忠興に譲り、忠興は光秀の娘・(ガラシャ)を幽閉した。

光秀は頼りにしていた藤孝・忠興親子の協力を得られず、関係の深かった筒井順慶からも断られてしまう

そして、中国大返しを成功させた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との山崎の合戦で敗死。

筒井順慶は当初は消極的ながら光秀へ協力する姿勢を見せていたことから、藤孝がもし光秀に協力する決断をしていれば、歴史の流れは大きく変わっていたかもしれない。

その後 藤孝は、光秀と共に謀反に加担したと疑われた身内の一色義定を宮津城に誘い出して謀殺し、信長への忠義心を見せている。

豊臣秀吉の臣下

藤孝は隠居していたが、秀吉に重用されて千利休津田宗及と共に文化人として優遇され、山城西ヶ丘に3,000石を与えられた。

また武将としては紀州征伐や九州平定にも参加している。

秀吉は教養人としての藤孝を認め、茶会や歌会などを任せていたという。

藤孝は足利義輝・足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と主君を変えていていき、義昭が死去した際には葬儀を行う者が誰もいなかったので藤孝が取り仕切り、かつての主君への礼節を果たしている。

関ヶ原の戦い

秀吉の没後、藤孝はまたも時流を読み、今度は徳川家康に接近する。

慶長5年(1600年)6月、息子の忠興は軍勢を率いて家康と共に会津征伐に参加した。
そのために藤孝が守る田辺城は手薄となり、関ヶ原の戦いの前に西軍によっては包囲されてしまう。

そこで藤孝は三男・幸隆と共に500にも満たない兵で籠城戦を行った。

幽斎が籠った丹後田辺城(舞鶴城)wiki(c)

西軍15,000の兵に田辺城を包囲されてしまうが、藤孝は籠城戦を指揮しながら何とか持ちこたえた。

西軍の中には藤孝の歌道の弟子も多くおり、その中の八条宮智仁親王が2度に渡って藤孝に降伏を促したという。

しかし、藤孝は会わずに2か月も籠城を続けた。

藤孝が討死することで古今伝授が断絶することを恐れた八条宮智仁親王は後陽成天皇に奉請し、関ヶ原の戦いの2日前に勅命によって講和となった。

結果的に西軍15,000の兵は田辺城に釘付けとなり、関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず、忠興は本戦では石田三成の軍と戦い東軍は勝利した。

藤孝・忠興親子は家康を助け東軍の勝利に貢献したため、忠興は豊前小倉藩39万9,000石の大加増となった。

晩年、藤孝は京都の吉田で悠々自適な生活を送り、慶長15年(1610年)8月20日、77歳で亡くなった。

おわりに

細川藤孝は足利義輝・足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時流を読み、生き残るためには誰につくことが肝要なのか察知する能力に長けた武将だった。

いつの時代も文武両道の素晴らしい人物はいるものだが、細川藤孝ほどの文武両道な人物はなかなかいないはずだ。

盟友だった明智光秀の再三に渡る要請を拒み続けた「決断力」はあっぱれとしか言いようがない。

この決断は光秀の敗北に大きく影響し、秀吉、家康へと天下は移り変わっていくこととなる。

 

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