戦国時代の大事件であり、現在でも謎が多い「本能寺の変」。
明智光秀が主君である織田信長を本能寺で自害に追い込んだこの事件は、光秀の動機などについて未解明な点が多い。
そのため、「信長生存説」や「信長の墓」がいくつも存在するなど、詳細については依然として謎である。
当時の史料には、どのようにこの事件が記録されていたのか。
今回は、さまざまな記録をもとに、本能寺の変の詳細を探ってみたい。
本能寺の変とは
まずは、本能寺の変の概要を振り返ってみよう。
天正10年(1582年)5月15日、織田信長は徳川家康と穴山梅雪を安土城に招待した。
この際、饗応役(接待役)を務めたのが明智光秀であった。
その最中、備中(現在の岡山県)に出陣していた羽柴(後の豊臣)秀吉から援軍要請が届く。信長は光秀に饗応役を解くよう命じ、秀吉を助けるために出陣するよう指示した。
光秀は自らの城に戻り、出陣の準備を始める。
一方、信長は家康一行に京や堺を見物させ、5月29日には少数の供回りを連れて本能寺に入る。
そして6月1日の夜、光秀は1万3千~2万の軍を率いて出発した。
しかし途中で進路を変更し、秀吉の元ではなく本能寺に向かって進軍を開始。
6月2日午前4時30分頃、光秀は本能寺を包囲し、信長は自害に追い込まれた。
その後、光秀は妙覚寺に向かった。
妙覚寺には信長の後継者である織田信忠が待機していた。
信忠は事態を知ると、すぐに妙覚寺を出て、より防御力の高い二城御新造に向かう。そこで光秀の軍と対峙したが、最終的には討死することとなる。
しかし、信長と信忠の遺体はその後発見されることはなく、本能寺の変の最大の謎となっている。
近い時代に書かれた一代記 豊臣秀吉と織田信長
当時の史料には、一代記、日記、読み物、記録集など、さまざまな種類が存在する。
一代記は主に権力者の功績を後世に伝えるために書かれたものであり、日記や記録集は当時の出来事を記録した一次資料としての価値が高い。
まずは、本能寺の変に関連する一代記について詳しく見ていく。
・「惟任退治記(これとうたいじき)」
「惟任退治記」は、『天正記』という書物の一編であり、本能寺の変から山崎の戦い、さらには信長の葬儀に至るまでの出来事を記録している。
この書物は、天正10年(1582年)当時に書かれたとされる。
ただし、あくまで秀吉側の視点から書かれている点に注意が必要だ。秀吉は本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、勝利を収めている。このため光秀に関する評価や本能寺の変の経緯については、秀吉にとって有利な視点が反映されていると考えられる。
・「信長公記(しんちょうこうき)」
「信長公記」は、信長に仕えていた太田牛一によって書かれた記録である。
太田牛一は、信長の死後、丹羽長秀や豊臣秀吉に仕官し、その経験を元に信長の伝記を記した。
信長公記は、事件当時に書かれたものではなく、過去を振り返ってまとめられたものだ。
慶長15年(1610年)、本能寺の変から28年後に書かれたこの記録は、信長の幼少期から本能寺の変までを取り上げている。
本能寺の変に関する詳細は、寺から脱出した女衆からの聞き取りによって記録されている。
この「信長公記」は、信長にまつわる多くの逸話や伝説の元となっており、信長好きには非常に有名な史料である。
外国人から見た本能寺の変
本能寺の変に関する記録には、外国人の視点も存在する。
その中で特に注目すべきは、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスによる記録だ。
・ルイス・フロイスの『Historia de Japam』(日本史)
ルイス・フロイスは、天正11年(1583年)から文禄3年(1594年)にかけて、日本に滞在していたポルトガルの宣教師であり、当時の日本の社会や文化について広範な記録を残した。
その著作『Historia de Japam』(日本史)には、当時の日本の武将や庶民の生活、戦争、政治などさまざまな出来事が詳述されている。
本能寺の変についても触れられているが、フロイスは本能寺の変が起こった時には京にいなかったため、彼の記述はすべて「また聞き」の情報に基づいている。
また、フロイスは日本の仏教や宗教に対して批判的な立場を取っており、あくまでキリスト教徒としての外国人の視点である。
逆に言えば、キリスト教視点以外は忖度なく書かれているので、史料的価値は高く評価されている。
当時を伝える関係者の日記
本能寺の変に関する記録は、当時の公家や僧侶たちの日記にも残されている。
いくつかの代表的なものを見ていこう。
・言経卿記(ときつねきょうき)
言経卿記は、当時の公家であった山科言経の日記であり、天正4年(1576年)から30年にわたって記録されている。
多少の欠落があるものの、この日記には京の政治情勢や公家・武士の動向についての詳細が記録されており、また最古の詰将棋の記録なども含まれている。
特に本能寺の変に関しては、当時の人々の視点を知る上で重要な手がかりとなっている。
・兼見卿記(かねみきょうき)
『兼見卿記』は、吉田神社の神主であった吉田兼見が記した日記である。
この日記は、書き始められた正確な時期は不明だが、信長や秀吉の時代を含む戦国期の重要な出来事を多く記録しており、史料として一級品と評価されている。
特筆すべき点として、本能寺の変が発生した天正10年(1582年)の記録には、正本とは別に「別本」が存在することが挙げられる。この別本には、明智光秀に関する部分が書き直されている箇所があるとされており、これが後世の憶測を呼ぶ要因となっている。
吉田兼見は、光秀と親しい間柄であったと伝えられるため、この書き直しには特別な事情や意図があったのではないかと推測されている。
・晴豊記(はれとよき)
当時の公家であった勧修寺晴豊の日記で、慶長7年(1602年)までの記録が残っている。
晴豊は信長、光秀、秀吉と深い交流があったため、当時の情勢や武家の動きに関する詳細な記録が多く残されている。
特に本能寺の変に関しては、彼が信長と直接会っていたことが記録されており、信長に最後に会った人物の一人であるとされている。
・多聞院日記(たもんいんにっき)
奈良興福寺の塔頭・多聞院で書かれた日記であり、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)までにわたり、僧侶によって記録が続けられてきた。
戦国時代の様子を知る上で非常に重要な資料であり、近畿地方の政治や戦争の動向についても多くの記録が残されている。
本能寺の変に関しては、多聞院が奈良にあるため伝聞しか残っていないが、間違った情報を後から訂正するなどしているため、誠実に書かれたものであることがうかがえる。
その他の資料
他にも、本能寺の変に関連する史料はいくつか存在する。
ただし、それらの中には信憑性に欠けるものや、江戸時代に作られた読み物も含まれる。
以下に代表的なものを紹介する。
・川角太閤記(かわすみたいこうき)
筑後柳川32万石の大名である田中吉政・忠政に仕えた武士、川角三郎右衛門が記した読み物である。
江戸時代初期に作られたものであり史料としての信頼性は低い。しかし、「饗応役の光秀が家康に用意した魚が腐っていた」という有名な逸話の出所として知られる。
・当代記(とうだいき)
徳川家康の業績を中心に記された読み物であり、松平忠明が寛永21年(1645年)までに書き上げたものである。
戦国時代から江戸初期の政治・文化・災害などについて記録している。他の史料にはない独自の考証が含まれる点が特徴である。
・明智軍記(あけちぐんき)
江戸時代中期に作られた軍記物であり、明智光秀を主人公とする創作物である。
現代でいうところの小説に相当するため、史料としての価値はほとんどない。しかし、その内容が歴史的事実であるかのように扱われることもあり、注意が必要である。
・群書類従(ぐんしょるいじゅう)
江戸時代の国学者である塙保己一が編纂した史料集であり、古書の保存を目的として作られた。
弟子たちによって引き継がれ、なんと昭和47年まで刊行が続けられた。本能寺の変に関する多くの史料が収録されており、現代に伝わる貴重な史料集である。
おわりに
本能寺の変に関する資料を振り返ると、特に日記類が非常に興味深い。
これらの日記は、当時の人々が実際に見聞きした出来事を記録しているため、貴重な証言となっている。公家、神主、僧侶など、記録を残した人物たちの立場は多岐にわたり、それぞれの視点から得られる情報には違いがあり、非常に興味深い。
一方で、信長に関する記録は数多く残されているが、明智光秀に関する記録は非常に少ない。光秀の正確な年齢さえも不明であり、その人物像は謎に包まれている。
本能寺の変の真実を自ら検証してみたいと考える方々には、上述の史料が有益な参考となるだろう。これらの記録をもとに、歴史の謎に迫ることができるかもしれない。
参考:再審・本能寺の変 光秀に信長は殺せたのか?
文 / 草の実堂編集部
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