安土桃山時代

『豊臣秀頼の呪い』波乱の人生を歩んだ千姫が怯えた「祟りの噂」とは

画像:千姫 public domain

豊臣秀吉の子である秀頼と、徳川家康の孫である千姫

二人は政略結婚によって結ばれたが、その運命は波乱に満ちたものだった。

豊臣家と徳川家の対立は二人の結婚生活にも影を落とし、やがて千姫は秀頼の怨念や祟りを恐れるようになったと伝えられている。

二人の間に何が起きたのか、そして千姫が秀頼の「呪い」を恐れたという話は、どのような背景から生まれたのだろうか。

豊臣秀頼と千姫の結婚

画像 : 豊臣秀頼 public domain

秀頼は、秀吉の三男として文禄2年(1593年)8月3日に生まれた。

母は浅井長政の長女・淀殿であり、淀殿の母は織田信長の妹であるお市の方であった。このため秀頼は、豊臣家・織田家・浅井家という有力大名家の血筋を受け継いでいる。

秀吉は晩年に授かった秀頼を溺愛し、自身の後継者として大きな期待を寄せた。
死去の前には、大名たちに秀頼への忠誠を誓わせる起請文を作成させるなど、秀頼の将来を確実なものにしようと努めた。

千姫は徳川家康の孫で、慶長2年(1597年)4月11日に生まれ、幼少期から賢く美しい姫として知られていた。

父は家康の三男で、後に江戸幕府二代将軍となる徳川秀忠、母は浅井長政の三女で淀殿の妹にあたる江(崇源院)である。
このため、千姫も徳川家・織田家・浅井家の血を引く名門の姫であり、秀頼とは従妹の関係にあたる。

慶長8年(1603年)、秀吉の死後、その遺志を継ぐ形で秀頼と千姫は結婚したと伝えられている。

この時、秀頼は10歳、千姫は7歳であった。

「大坂の陣」で引き裂かれた二人

画像:大阪城 イメージ

大坂城に移り住んだ千姫は、夫である秀頼と生活を共にすることとなった。

二人は仲睦まじかったとされ、秀頼が千姫の髪を整えることもあったという。
しかし、二人の間に子供は授からなかった。一方で秀頼には側室がおり、その間には子供が生まれていた。

やがて、徳川家康が台頭すると豊臣家との対立が深まり、千姫は微妙な立場に立たされることとなる。

両家の対立は最終的に戦争へと発展し、大坂冬の陣(1614年)と夏の陣(1615年)が勃発した。
戦乱の最中、千姫は両家の板挟みとなり苦悩の日々を送った。

夏の陣の終盤、千姫は徳川家の救出計画により大坂城から脱出し、徳川方の陣営に送り届けられた。豊臣家も千姫の安全を考慮し、これを許した可能性がある。

この際に、千姫は夫・秀頼と義母・淀殿の助命を嘆願したものの、聞き入れられることはなかった。
こうして秀頼と淀殿は、大坂城の炎上の中で自害し、豊臣家は滅亡した。

戦後、千姫は秀頼と側室の間に生まれた娘・天秀尼の処刑に反対し、必死の説得の末に命を救った。その後、天秀尼を自身の養女とすることで保護し、天秀尼は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となった。

千姫の再婚

画像:本多忠刻 public domain

大坂の陣が終結した翌年の元和2年(1616年)、千姫は再婚することとなる。

再婚相手は、名将として知られる本多忠勝の孫である本多忠刻であった。

しかし、その輿入れに際して一波乱が起きた。
津和野藩主・坂崎直盛が、千姫を強奪しようとする計画を立てたのである。

理由は諸説あるが、通説では、直盛は大坂城から徳川の陣に千姫を送り届けた人物であり、当時の家康から「千姫を助けた者には千姫を与える」との言葉を受けていたとされる。しかし、その約束が果たされることはなく、これを不満とした直盛は千姫の誘拐を試みたという。

この計画は幕府に事前に知られ、失敗に終わり、直盛は討たれて(自害説もあり)坂崎家は改易された。
この事件は「千姫事件」と呼ばれている。

その後、千姫は忠刻と無事に結婚した。

忠刻は端正な顔立ちの美男子であり、千姫と共に「眉目秀麗な夫婦」と称されるほど仲睦まじい生活を送った。そして伊勢・桑名から播磨・姫路へと移り住み、穏やかな家庭を築いた。

この間、千姫は長女・勝姫と、長男・幸千代の二人の子供をもうけた。

しかし、長男の幸千代は元和7年(1621年)にわずか3歳で亡くなってしまった。

「秀頼の呪い」を恐れた千姫

画像:慶光院 wiki c Tawashi2006

しかし千姫は、早逝した幸千代以降、子宝に恵まれなかった。

「秀頼の祟りではないか?」との噂が立ったため、千姫は元和9年(1623年)9月、伊勢の慶光院の周清上人に供養を依頼した。

周清上人が記した願文と、秀頼自筆の「南無阿弥陀仏」の名号を観音像の胎内に納め、秀頼の霊魂を祀ったのである。

願文にはこう記されている。

意訳 :「お気持ちは察しますが、秀頼様自筆の六字名号を御神体として胎内に納め、生き神様としてお祀りしますので、どうか悔しさや恨みを鎮め、守り神として千姫に多くの子を授け、母子共に繁栄するようお力添えをいただければ幸いです。」

こうして千姫は、秀頼の霊魂が守り神となり、自身と家族を見守ってくれることを願ったのである。

千姫の晩年

画像 : 千姫 public domain

しかしそんな願いも虚しく、その後も千姫には子ができないばかりか、3年後の寛永3年(1626年)には、夫の忠刻が31歳の若さでこの世を去ってしまう。

さらに姑の熊姫、母の江までも次々に亡くなり、千姫は本多家を出ることになる。

千姫は娘の勝姫を連れ、父・秀忠のいる江戸城へ戻った。
江戸に移り住んでからは出家し、天樹院と号して竹橋御殿で娘と二人で暮らした。

その後、秀忠が亡くなると、家光の三男を養子に迎え、大奥での影響力を強めた。

晩年は穏やかに過ごし、70歳でこの世を去った。

おわりに

千姫は、若い頃に豊臣家と徳川家の対立に翻弄され、その後も波乱に満ちた人生を歩んだ。

長男や夫、親族たちの相次ぐ死は、千姫自身にとっても「祟り」と思わざるを得ないほどの苦難だったろう。

晩年は江戸に戻り、穏やかに過ごすことができた。温和な性格で知られる千姫は、家光とも良好な関係を築き、その配慮によって平和な暮らしを享受できたと言われている。

激動の時代にあって、最期は静かな幸福を見出せたことを願いたい。

参考:
戦国の世の祈り(大阪城天守閣)、聖観音坐像(千姫観音)、豊臣秀頼自筆六字名号、慶光院周清上人自筆願文 他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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