豊臣兄弟!

なぜ明智光秀は主君を討ったのか?光秀の「年齢」から考える本能寺の変

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』も第10回を迎えました。

今回のタイトルは「信長上洛」。
物語はいよいよ、後に戦国史最大級の事件を引き起こす人物の登場を迎えます。

それが、明智光秀です。

画像:明智光秀像/本徳寺蔵 public domain

光秀といえば、主君・織田信長を討った本能寺の変の首謀者として知られています。

しかし、光秀がなぜこの大事件を起こしたのかは、今もはっきりしていません。
怨恨説、野望説、黒幕説など、さまざまな説が唱えられてきました。

その謎を考えるうえで、改めて見直したいのが光秀の年齢です。

実は光秀の生年は定かではなく、本能寺の変の時の年齢にも大きな幅があります。
ただ、いずれの説でも共通しているのは、光秀が信長や秀吉より年長だった可能性が高いことです。

この年齢差は、本能寺の変を考えるうえでどのような意味を持つのでしょうか。

謎に包まれている明智光秀の生年は

画像:明智光秀像 photoAC

戦国時代の人物には、生まれ年がはっきりしない人が多く、秀吉もその代表的な一人です。

光秀の誕生年もはっきりとした史料が残っておらず、研究者の間でも定説はありません。

主な説としては次の二つがあります。

まずは、徳川家康の事績を中心に記された『当代記』。
同書によると、1516年(永正13年)で本能寺の変の時の光秀の年齢は、67歳となります。

続いて『明智系図』。
同書では、1528年(享禄元年)とされ、本能寺の変時は55歳

このほか、森蘭丸を出した森家の家臣による『武家聞伝記(ぶけぶんでんき)』では、1513年(永正10年)頃の生まれとされ、本能寺の変の時は70歳前後になります。

このように諸説の開きは大きく、光秀の年齢をめぐって見方が分かれているのです。

一方で、光秀は40歳そこそこで本能寺の変を迎えたとする伝承もあり、諸説の開きは約30歳にも及びます。

ただ光秀は斎藤道三との関わりも取り沙汰される人物であり、その前半生を踏まえると、40歳で本能寺の変を迎えたとみるのは、やや若すぎるようにも思われます。

信長・秀吉との年齢差と武将としての死生観

画像 : 織田信長肖像(秀吉清正記念館所蔵) 作者不詳 public domain

では、織田信長と豊臣秀吉との年齢差はどれくらいであったのでしょうか。

織田信長は、1534年(天文3年)生まれとされています。
また、信長の家臣として出世していった秀吉もその生年は確かではありませんが、一般に1537年(天文6年)前後の生まれとされます。

つまり光秀の生年をどの説で考えても、信長や秀吉より年長だった可能性が高く、その差は数歳から20歳前後まで開きがありえます。

当時としては、50代半ばから60代後半は決して若い年齢ではありません。
光秀は自分より年下の信長に仕え、異例ともいえる出世街道を歩んでいきました。

しかし反面、そのさらに年下である秀吉が急速に出世していく姿を見ていたことにもなります。

晩年の光秀が感じたこと

画像:山崎の合戦に敗れ敗走する明智光秀/歌川芳虎作 public domain

仮に、光秀の生年について1516年説や1528年説が正しいとすれば、本能寺の変の時の年齢は、すでに50代半ばから60代後半でした。

当時の感覚でも、家の行く末や自身の立場を強く意識しても不思議ではない年齢だったといえるでしょう。

戦国武将にとって人生とは、主君に功績を示し名を残すことはもちろんですが、最終的になすべきことは「家を残すこと」でした。

しかし、人生の終盤に差し掛かった光秀の目の前には、天下統一に向かい着々と進む信長がいました。
そしてその後継者には信長から正式に家督を譲られた織田信忠がおり、周囲を見回せば急速に出世していく秀吉がいたのです。

さらに1582年(天正10年)3月、武田勝頼の滅亡後には、信長と光秀の間に得体の知れない不協和音が漂っていたともいわれます。

天下の主役は自分ではない。

その現実を前にしたとき、光秀は何を思ったのでしょうか。

画像:「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画)

もちろん光秀が本能寺の変を起こした理由を、年齢だけで説明することはできません。
そこには、さまざまな事情があったはずです。

しかし光秀がその年齢ゆえに、織田家中で生き続けることに強い不安を抱いていたとしたらどうでしょう。

もしそうであれば、本能寺の変は単なる野望や怨恨だけではなく、人生の終盤に差しかかった武将の決断という側面も持っていたのかもしれません。

本能寺の変は、戦国史最大の謎といわれています。

その謎を解く手がかりとして、光秀の「年齢」という視点を考慮に入れてみる価値はあるのではないでしょうか。

※参考文献
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を取った処世術』文芸春秋
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

※本記事の内容は草の実堂audioで音声でも公開されています。

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