
画像:淀殿/浅井 茶々『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵) public domain
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦国時代の女性たちにもこれまで以上に光が当てられています。
戦国ものはどうしても「男中心」になりがちなため、制作側も意図的に女性の登場を増やしたと説明しています。
こうした流れのなかで、あらためて見直しておきたいのが淀殿という人物でしょう。
淀殿は一般に、「美女」「気の強い女性」「豊臣家滅亡の一因」といった印象で語られてきました。
ところが時代が下るにつれて、「好色な女」「妖怪」「蛇女」といった、極端な悪女像まで付け加えられていきます。
もっとも、これらの多くは同時代の確かな史実というより、後世の軍記物や読本、芝居のなかで形づくられていったイメージにすぎません。
そこで今回は淀殿の生涯をたどりながら、こうした人物像がどのように作られていったのかを見ていきます。
悲劇の連続のなかで秀吉の妻となった茶々

画像:「雪月花の内」秀吉と淀(豊原周信)public domain
淀殿こと茶々は、織田信長の妹・お市と浅井長政のあいだに生まれた浅井三姉妹の長女です。
天正元年(1573)、父・長政は織田信長との対立のなかで自害し、さらに天正10年(1582)の本能寺の変で信長も命を落としました。
その後、お市は柴田勝家と再婚しますが、翌年、勝家は羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市とともに命を絶ちます。
こうして茶々の前半生は、戦乱のなかで家族を次々と失う過酷なものとなりましたが、やがてその茶々が秀吉の妻となることになります。
史料上、秀吉の妻として確認できるのは天正14年(1586)のことです。父や母を失うことになった一連の戦いの結果、秀吉のもとに入ることになりました。
その後、天正17年(1589)に鶴松、文禄2年(1593)に秀頼を出産すると、淀殿の地位は一気に高まります。
しかしこのことが、のちの悪評の火種にもなりました。
秀吉には多くの妻妾がいたにもかかわらず、淀殿とのあいだには男子が続けて生まれたため、当時から「秀頼は本当に秀吉の子なのか」という風説がささやかれ、この疑念が後世の不義密通説へとつながっていったと考えられます。
大野治長との密通説

画像:大野治長像「大坂夏の陣図屏風」public domain
淀殿の相手としてしばしば名前が挙げられるのが、大野治長です。
治長の母は淀殿の乳母であり、両者はきわめて近しい関係にありました。
そのため、「淀殿と治長は密通している」「秀頼は治長の子である」といった噂が広まっていきます。
こうした風聞は、『萩藩閥閲録』『明良洪範』『多聞院日記』、姜沆『看羊録』などにも見られますが、成立事情や性格はそれぞれ異なります。
そのため、史実としてそのまま受け取ることはできません。
確認できるのは、あくまで「そのような噂が存在した」という点にとどまります。
もっとも、淀殿は秀吉の後継者を産んだことで、豊臣政権内で大きな影響力を持つ存在となっていました。
その立場が周囲の警戒や反発を招き、こうした噂を生みやすい状況をつくったとも考えられるでしょう。
死後に拡大した悪女像

画像:「淀之君」(月岡芳年)public domain
淀殿は秀吉の死後も秀頼を支え続けますが、慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で秀頼とともに大坂城で最期を迎えます。
そして彼女の悪女像が大きく膨らんでいくのは、この死後のことでした。
軍記『難波戦記』の流れを汲む『難波秘事録』では、淀殿は複数の男性と関係を持った「好色婦人」として描かれます。
さらに江戸後期の読本『絵本太閤記』では、その人物像は大きく変質し、物語の中核で暗躍する存在へと変えられていきました。
「蛇女」へと変化した淀殿像

画像: 清姫日高川に蛇躰と成るの図 (月岡芳年)wikicpublic domain
『絵本太閤記』の「淀君行状」に至ると、淀殿はもはや歴史上の人物というより、怪異譚の登場人物として描かれるようになります。
物語の中で淀君は、北政所への嫉妬や秀頼出生をめぐる噂への不安に駆られ、次第に美貌への執着を強めていきます。
やがて僧の助言を受け、若返りの秘法に手を染めるのですが、その内容は「内股の肉を切り取って大蛇に食わせ、その肉を自らの体に戻す」という、常軌を逸したものでした。
こうして若さと美貌を取り戻した淀君は、さらに多くの男を惑わせる存在として描かれていきます。
そして最終的には、嫉妬と不安に取りつかれたまま人の姿を失い、大蛇へと変じたのでした。
ここまでくると、もはや史実の人物像とは大きくかけ離れているといわざるを得ません。
つまり淀殿は「気の強い女性」から「好色な悪女」へ、さらに「蛇女」へと、時代が下るにつれて誇張されていったのです。
近世から近代へ受け継がれた悪女像

画像:花見。秀吉と淀(喜多川歌麿)public domain
「女性が嫉妬によって蛇へと変じる」、こうした発想は、日本文化のなかでは決して珍しいものではありません。
たとえば安珍・清姫伝説がよく知られていますが、江戸時代の芝居や読本では、このような「蛇女」のイメージが広く共有されていました。
『絵本太閤記』における淀殿像も、そうした文脈の延長線上に位置づけられるでしょう。
さらに時代が下ると、明治期の『日本艶女列伝』でも、淀殿は「美しくヒステリー気質な女性」として描かれます。
こうして江戸時代に形成された悪女像は、近代に至ってもなお受け継がれていきました。
「豊臣滅亡は淀殿が秀吉を狂わせたため」という物語

画像:「木下藤吉郞秀吉」 『絵本太閤記』巻一冒頭の挿絵( 法橋岡田玉山)public domain
淀殿をいわゆる「悪女」として描く物語が本格的に広まった背景には、豊臣家に代わって天下を握った徳川家への批判を避ける意図があったのではないか、とする見方もあります。
すなわち、「豊臣を滅ぼしたのは徳川ではなく、淀殿が秀吉を狂わせた結果である」とする筋書きを広めることで、政権交代の責任を個人に転嫁しようとした、というものです。
しかし、淀殿の置かれた状況はあまりにも過酷でした。父を戦で失い、さらに母と義父も滅び、その後は敵であった秀吉のもとに入ることになります。
そして秀吉の死後は、幼い秀頼の将来を一人で背負わざるを得ませんでした。
そうした境遇にあった人物に、豊臣家滅亡という歴史の帰結まで背負わせるのは酷と言わざるをえません。
近年では、「淀殿=悪女」とする従来のイメージそのものが再検討の対象となり、あらためてその実像を見直そうとする研究も進んでいます。
最後に

画像 : 北ノ庄城址(柴田神社)に立つ「三姉妹像」。浅井三姉妹を象ったもの(向かって左より茶々、江、初)。wiki(c)立花左近
同時代の史料から浮かび上がる淀殿の姿と、後世に語られてきた人物像とのあいだには、大きな隔たりがあります。
『豊臣兄弟!』で淀殿を演じる井上和さんも、「大切な人のために最善を尽くそうと、強く立ち続けた女性だと思う」と語っています。
後世に作られた妖艶な悪女像ではなく、激動の時代を懸命に生きた女性としてどのように描かれるのか、注目したいところです。
参考:
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
物語の中で紡がれる淀君 京都先端科学大学
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

























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