「世上をする人」とは聞きなれない言葉ですが、歴史学者の磯田道史氏は、戦国時代を統一した豊臣秀吉を、この種の人として「最も成功した人物」と評しています。
世上とは、「世の中」「世間」「俗世間」などと解釈されますが、実は前近代においては一般の人たちとかけ離れた人と思われていました。
今回はこの「世上をする人」とはどのような人たちであるかを考察しつつ、そのような人たちが戦国の世で際立った活躍が出来た理由を紐解いていきます。
現代人と前近代人の「世界の広さ」の違い

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain
まずは、いま私たちが暮らす現代社会を俯瞰してみましょう。
多くの人は、国家や地方自治体、あるいは企業などに属し、それに関わる日常的な営みの中で暮らしています。そうした枠を越えた交流もありますが、多くは業務上のやり取りにとどまるでしょう。
また家庭を守る人々も、その活動の中心は自らの家庭にあるといえます。
では、前近代はどうだったのでしょうか。
たとえば武士であるならば、主君から与えられた領地と、そこに構える屋敷、主君の居城や戦場などでの活動が普通でした。
また、農民であるなら自分が生まれた「ムラ」や「イエ」など、とても小さく狭い世界の中で生きていたのです。
やや余談になりますが、先日関西に仕事で赴いた折り、半世紀あまり暖簾を掲げる馴染みの料理屋の主人と話をしました。
地元では名店と評判の高いその店の主人は、店にほぼ付きっきりで、地元を離れる機会がほとんどなかったそうです。
彼は、振り返ってみれば自分は本当に狭い「小世界」で生きてきたのだなぁと語っていました。
つまり、このような人たちと対極をなす人々が「世上をする人」と呼ばれた人たちであったのです。
「イエ」と「ムラ」からはみ出した人々

画像:明智光秀像/本徳寺蔵 public domain
当時における「世上をする人」とは、「イエ」「ムラ」などの小世界から、はみ出してしまった人たちのことを指しました。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場する人物としては、主人公の豊臣秀吉・秀長兄弟はもとより、蜂須賀小六・前野将衛門・黒田官兵衛・明智光秀・滝川一益などが、この範疇に属していると言えるでしょう。
彼らに共通しているのは、元々、あるいは成長過程において、生まれ故郷の「ムラ」「イエ」から離れ、広い世界に身を投じていたことです。
このような人々は「小世界」を飛び出し広い世界に出ることでネットワークを持つようになり、さまざまな情報を得るようになりました。
しかし彼らは当時の秩序からみれば、固定した概念から逸脱した得体の知れない人々でもあったのです。
そしてこのような人々とは、決まった主君をもたずに各地を放浪する武士や、村のものを町で売り海のものを山で売りさばく商人、さらには諸国を巡る旅芸人などでした。
こうした活動の中から、やがて「外交」や「諜報」に長けた者たちも現れていくのです。
信長は「世上の人」を活用し戦力化した

画像 : 織田信長 public domain
戦国大名は最終的に京都へ上洛し、天下を取ることを目指していたと語られがちです。
しかし、ほとんどの大名たちにとって重要だったのは、まず自分の既存の領地をしっかり守り、保つことでした。
そのような戦国大名のあり方を打ち破ったのが、織田信長であり豊臣秀吉です。
もちろん、信長自身は「世上の人」ではありません。
しかし信長の凄いところは、秀吉や光秀、一益など、素性が定かでなく、得体の知れない「世上の人」を家臣として採用し、しかも幹部として取り立てていったことです。
それは家臣だけではありません。
信忠・信雄の母の実家である生駒家も、馬借を生業とする武家商人、言い換えれば「世上の人」であった可能性が高いとされています。

画像 : 滝川一益 public domain
つまり信長は、広い外の世界で活動しさまざまなネットワークを持つ人々を周囲に取り込みながら、戦国の世を生き抜くうえで有利となる情報を得ていたのです。
信長が多くの合戦で優位に立ち、しばしば大きな勝利を収めることができた背景にも、こうした「世上の人」のもたらす情報や諜報活動があったと考えられます。
しかしその信長も最終的には「世上の人」光秀の謀反によって命を落とします。
そして光秀を討ち、天下を取ったのが同じ「世上の人」である秀吉であったという事実は、日本の戦国史を考えるうえで重要なことと言えるでしょう。
戦国の世とは、武力の時代であると同時に、「小世界」を飛び出した「世上の人」と称される人々が、広い世界の情報を武器にのし上がった時代でもあったのです。
※参考文献
磯田道史著『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文集新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























この記事へのコメントはありません。