幕末明治

まるで二重人格?「善」「悪」の二面性を持った英雄・西郷隆盛の実像に迫る

画像:西郷隆盛肖像(エドアルド・キヨッソーネ作、1883年)public domain

木戸孝允(長州)、大久保利通(薩摩)とともに「維新の三傑」に数えられ、明治維新実現に大きく尽力した西郷隆盛

歴史の教科書では西郷の業績として、「江戸城無血開城」を筆頭に「薩長同盟」「征韓論」などが挙げられ、新政府へ不満を募らせる士族の代表として、彼らの思いを受け止め「西南戦争」で潔く散っていったと記されている。

そんな西郷の性格というと多くの人は「おおらかさ」「優しさ」を挙げるのではないだろうか。「西郷さん」と親しみを込めて呼ばれているのもその理由からだろう。

しかし、西郷ほど相反する極端な性格をもった人物は珍しい。その性格は、「粘着質」「好戦的」の2つに分けられる。

今回は、まるで二重人格ではと思わせるような西郷の二面性を紹介しながら、その実像に迫ったいきたい。

やさしさに通じる餅のように「粘着質」な「善」の性格

画像:軍服姿の西郷隆盛(床次正精作)public domain

歴史学者の磯田道史氏は、「西郷は餅のような男」と述べている。

生来、共感性が強く男でも女でも動物でも、まるで焼いた餅のように、そばにいると気持ちが溶け合って一体になってしまうという。

この「粘着質」的ともいうべき性格は、一般には西郷の「おおらかさ」「優しさ」に通じるものと理解されている。

西郷の「優しさ」「おおらかさ」のエピソードとしてよく語られるのが、飼い犬との逸話だ。

幕末における京都在番中でも、征韓論に敗れ下野した後の薩摩でも、飼い犬と出かけて腹が減ると料亭や鰻屋に入り、自分より先に犬に鰻を食べさせ、それから自分が食べた。

つまり西郷の中では、犬も自分も腹が減っているという共感が芽生え、その気持ちのままに行動に移すのだ。

このような西郷の性格は、まわりの人々に愛されやすく、事実、薩摩では絶大なカリスマとなっていく。

画像:月照 肖像画 public domain

西郷はこの性格により、生死の境をさ迷うことになる。

安政の大獄で追われていた勤王の僧・月照を保護して京都から薩摩に戻ったものの、藩が月照を保護する気がなく、逆に殺害しようとしているのを知り、思い余って共に錦江湾に入水して自殺を図ったのだ。

結局、月照は死亡し、西郷は奇跡的に助かったものの、回復するまで1ヶ月近くを要した。

この事件が起こった背景には、月照に対する責任感もあっただろうが、西郷の弱い立場におかれた者に寄り添う性格にあったとみるべきだろう。

これが、人間・西郷隆盛の最大の魅力であり美徳といっても差し支えないだろう。

目的のためには手段を選ばない「好戦的」な「悪」な性格

画像:江戸薩摩屋敷焼き討ち事件(フランスの週刊誌「L’Illustration」の記事イラスト)public domain

しかし、一方で多くの人の命を奪っても厭わない「好戦的」という性格をもっていた。

この性格は、戦いに勝つという「目的のためには手段を選ばない」という考え方につながり、そのための謀略をはじめると、暗殺・口封じ・欺瞞と何でもおこなった。

こうなると西郷の美徳である「優しさ」「おおらかさ」は影を潜め、彼の思考は恐ろしく深い闇の中に入っていった。

その代表が、王政復古の大号令後に画策した江戸での騒乱計画である。
西郷は騒乱を意図的に引き起こし、それを戦争へと発展させるべく、綿密に工作を進めていた。

王政復古の大号令で、維新政府は立ち上がった。これで、西郷らは自らが思い描く政治体制を築けるはずであった。しかし、実状はそうはならず、大政奉還を行い政権を手放したはずの前将軍・徳川慶喜が復権を遂げようとしていた。

画像 : 徳川慶喜 public domain

これに焦った西郷・岩倉具視・大久保利通らは、その状況を覆すためには旧幕府との戦争しかないと考えた。

そこで、徳川家の領地返納など無理難題を持ちかけたが、慎重の上に慎重を期す慶喜は断固として挑発に乗らない。

西郷は、徳川家のお膝元である江戸をかき回すことにより、江戸城にいる主戦派を刺激し、無理やりに内戦状態に持ち込もうとしたのだ。

しかし、それは真っ向から旧幕府と対峙するのではなく、罪のない町民まで巻き込んだ無差別テロを繰り返すという攪乱行為だった。

西郷は、薩摩藩士・益満休之助と薩摩陪臣・伊牟田尚平を江戸に潜入させ、薩摩出身の第13代将軍・徳川家定の正室・天璋院守護という名目で、諸国の過激浪人500人を集め浪士隊を組織させた。その中には、後に赤報隊を率いることになる相楽総三も幹部として加わっていた。

彼らは早速、江戸市中とその近郊で暴れまくった。商家へ押し込み、勤皇活動費と称して大金を強奪。また、相模国の荻野山中藩の陣屋を襲い、放火した。

さらに、江戸市中警護の任にある庄内藩の屯所を銃撃し、居合わせた町民2名を殺害するなど、見境なく放火・略奪・暴行などのテロ活動を行った。

そして、テロ行為はますますエスカレートしていく。ついには天璋院付の女中を仲間に引き込み、その手引きにより、江戸城内二ノ丸に侵入して、放火するという暴挙に出たのだ。

こうした露骨な挑発行為に、当初は静観していた幕府主戦派がついに動いた。

幕府は、伝習隊などの歩兵に諸藩藩士を中心に幕府軍を組織し、浪士たちが逃げ込んだ薩摩藩邸を銃砲で攻撃、これにより浪士隊は壊滅した。

いわゆる「薩摩藩邸焼き討ち事件」である。

画像:鳥羽・伏見の戦いで長州軍を視察する西郷。public domain

この後、薩摩への憎悪を募らせる幕府軍は続々と大軍を大阪へ集結。ついには、慶喜を恫喝してまで薩長討伐へ傾いていった。そして、西郷の画策通り、鳥羽伏見の戦いが勃発するのである。

鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争の口火となった「薩摩藩邸焼打ち事件」は、武力討伐によって江戸幕府を壊滅させた歴史の大きなターニングポイントであった。そして、それを見事に演出した西郷は、やはりただ者ではなかっただろう。その画策なくしては、明治維新後の薩長藩閥の政治形態はなかったかもしれない。

ただ、このような側面から西郷の人物像を伺うと、そこには目的達成のためには手段を選ばない「冷徹」な西郷の人物像が浮かび上がってくるのだ。

まとめにかえて。西郷隆盛と板垣退助の交わした会話

画像:板垣退助 public domain

西郷は戊辰戦争後に、板垣退助と「薩摩藩邸焼打ち事件」について以下のような会話を交わしたという。

大政奉還の約4カ月前、土佐陸援隊の中岡慎太郎の仲介によって、土佐藩の板垣退助・谷干城らと、薩摩藩の西郷・吉井幸輔らが武力討幕のための薩土討幕の密約を結んだ。その後、板垣が独断で江戸土佐藩邸に匿っていた水戸浪士たちを薩摩藩邸へ移した。もちろんこの水戸浪士たちは、薩摩藩邸に集まった浪士隊に加わった。

「板垣さん、あなたという人は恐ろしい人よ。人のところ(薩摩藩邸)にあんな恐ろしい浪士たちを放り込んで戦争を始めるとは。あなたは、深慮遠謀に長けた、なんとも恐ろしい人だ。」(西郷隆盛)

「いやいや、何を申されるか。あの事件を工作した西郷先生こそ、随分と危険なお人だと思いますよ。とにかく、首尾は上々でしたな。あれはさまに戦争を起こす好機でしたね。」(板垣退助)

「そうですな。浪士たちが騒いだあの事件こそが、戊辰戦争の幕開けであったと確信していますよ。」(西郷隆盛)

画像:官軍と西郷軍の激突を描いた浮世絵。中央が西郷隆盛。public domain

その画策により、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争にまで発展した「薩摩藩邸焼打ち事件」から9年後、まるで二重人格であるかのように、善悪に振れ幅の大きい性格をもつ英雄・西郷隆盛は西南戦争で散った。享年49だった。

※参考文献
磯田道史著 『日本史を暴く』中央公論新社刊

文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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