「千人斬り」という言葉は、もともとは願掛けや腕試しとして「千人を斬る」という意味で使われていた表現です。
やがて意味が変化し「1000人の異性と関係を持った」という俗語として広まり、どちらかといえば男性の豪快さを示すものとして語られてきました。
ところが、幕末から大正にかけての激動の時代、わずか20年間で「千人斬り」をしたという伝説を持つ女性がいました。
美貌の歌人であり、深川で人気を集めた芸者・松の門三艸子(まつのとみさこ) です。
彼女は一体どんな人生を歩んだのでしょうか。そして、本当に「千人斬り」をしたのでしょうか。

画像:辰巳芸者 高名美人六家撰・辰巳路考 喜多川歌麿筆 文化遺産オンライン
幼い頃から輝くような美貌の小町娘だった
松の門三艸子(まつのとみさこ/松野門・松乃門とも)は、天保3年(1832)3月3日、江戸下谷数寄屋町(現在の台東区上野)に生まれました。
名主の家(貸金業の家とする説もあります)の娘として育ち、本名は小川みさといいます。
幼い頃から美しい容姿で、近所でも評判だったそうです。
その美しさゆえか、わずか13歳で富豪・辻川長之助という人物に嫁ぎます。
ところが、夫の女遊びに耐えきれず、15歳の頃離婚してしまいました。(夫の死亡説も)
その後、観世流能楽家の山階滝五郎に出会い、嘉永2年(1849)頃、妊娠して未婚のままで出産。
赤ん坊は、子のなかった山階家に引き取られました。
滝五郎は、のちに能の名人といわれた初代・梅若実を育てるなどをし、能楽家として活躍したそうです。

画像:梅若実 (初世) public domain
美人で剣術もできる“やっとう芸者”
その後、三艸子(みさこ)は幕末に活躍した歌人・国学者・医師の井上文雄(号・柯堂)に弟子入りしました。
柯堂の門下には、三艸子のほかにも才色兼備で知られる内弟子がおり、二人は並び称されるほど注目され、「柯堂門の桜桃」と呼ばれるようになります。
ところが実家の商売が立ちいかなくなり、さらに火事の被害が重なって家は没落します。
そこで親兄弟を助けるため(諸説あり)、三艸子は「小川屋小三」と名乗り、深川で芸者として働くようになりました。
※なお、小三と名乗っていた時期の出来事についても、本文中では統一して「三艸子」と記述します。
この頃、同じ柯堂門下で三艸子に想いを寄せていた、因州池田家32万石の祐筆係・近藤栄治郎から求婚を受けたものの、それを断ったといわれています。
三艸子(小三)は、持ち前の美貌の上に歌人として活躍するほど頭もよく、男まさりな性格で、あっという間に売れっ子になりました。
さらに、剣術にも秀でていたと伝えられています。
千葉周作が創始した北辰一刀流を学び、「免許皆伝になった」という逸話もあり、当時は「やっとう芸者」と呼ばれて話題を集めました。
彼女が鉢巻を締めて剣を持ったり、馬に乗ったりする姿は錦絵に描かれ、たいそう評判になったそうです。
もともと深川芸者は、土地柄から職人や商人などの客が多かったために、吉原の芸者とは異なり“勇み肌で粋でいなせ”なのが特徴だったとか。
深川芸者は、当時、女性は着なかった「羽織」を着るので「羽織芸者」という呼び方もされていました。
そのような環境は、三艸子の性格に合っていたのでしょう。

画像:辰巳芸者 渓斎英泉筆 文化遺産オンライン
まるでドラマのような豪胆なエピソード
豪胆な性格の三艸子は、さまざまなエピソードを残しています。
どこまでが事実で、どこからが噂なのかははっきりしませんが、どの話も思わず物語にしたくなるような、痛快で男前な内容ばかりです。
その一部をご紹介します。
水戸藩士たちに物申す
料亭の座敷で、水戸藩士(のちの水戸藩天狗党)たちが宴を行ったときのこと。
座敷にいた芸者たちは、乱痴気騒ぎにたまりかねて皆逃げ出しました。
しかし、残った三艸子は藩士らに「刀をしまえ」と告げます。
「芸者風情が!」と怒る藩士たちに脅された三艸子は、臆することなく歌を詠みました。
たらちねの 親の許しし敷島の 道よりほかに 道ゆくぞなき
(親から教わった誇りある大和の道を踏み外す気はない。どんな状況でも、人として守るべき筋は通す)
この時、場を収めようと割って入ったのが、のちに天狗党の首領となる武田耕雲斎だったといわれます。
耕雲斎は、この胆力ある三艸子に強く惹かれ、後日、舟に呼び出して刀を抜き、自分の想いを受け止めるよう迫りました。
しかし、三艸子はまったく応じる気はなく、結局二人は酒を酌み交わすだけで終わりました。
さらに、耕雲斎が大きな盃に小判を沈めて酒を注ぎ、三艸子に差し出すと、彼女は一息で飲み干し、盃の小判をそのまま海へ投げ捨てた……という豪快な逸話も残っています。
殿様からの小判100枚を大盤振る舞い
贔屓筋の客である土佐藩主・山内豊信の座敷での出来事です。
三艸子が仕立てたばかりの三階松を染めた紋付を着ていたところ、山内は「好きな男の紋でも着ているのか?」と揶揄するような言葉を投げかけました。
しかし三階松は、三艸子の実家の家紋でした。
侮辱と受け取った三艸子は腹を立て、紋をハサミで切り取り庭へ投げ捨て、残りの着物を女中に「これは前掛けにでもしなさい」と渡してしまいます。
さらに、
「たとえ想う相手から贈られたものであっても、芸者の意地にかけて殿様の座敷に着て上がるはずがありません!」
と啖呵を切ったのです。
さすがに山内豊信も「悪かった」と詫び、なんと小判100枚を差し出しました。
しかし三艸子は、それをすべて従業員や女中にばら撒き、大盤振る舞いしたのです。
この剛気な事件は「深川紋切り事件」と呼ばれ、「紋切り芸者・小三大明神」という題の瓦版まで出回るほどの評判になりました。
美貌に加えて、気っぷのよさと潔さを持ち合わせた三艸子は、男にも女にも惚れられる存在だったでしょう。

画像:大正期の芸者遊び 淡交社「写真集成・京都百年パノラマ館 public domain
接客業と歌の師匠の二枚看板で活躍
三艸子は売れっ子芸者として活躍する一方で、自作の歌が歌集に撰歌されるなど、歌人としての活動も続けていました。
そして30代半ばになる頃、芸者を引退し、髷を落として松の門三艸子(まつのとみさこ)と号し、本格的に歌の道へ進むことになります。
深川には座敷をいくつも備えた家を新築し、歌を教える場として用いるほか、部屋を待合として貸し出すなど、元売れっ子芸者としての接客と歌の師匠、二つの看板で事業を営みました。
その歌塾は名家の夫人や、粋筋の芸者たちでにぎわったといわれています。
では、彼女が「千人斬り」と呼ばれるようになったのはなぜでしょうか。
13歳で結婚し、芸者として、そして歌人として、多くの男性から言い寄られる存在であったことは事実ですが、もちろん、千人に達するような人数ではありません。
この伝説の背景には、かつて三艸子に求婚して断られた、近藤栄治郎の存在があったとされています。
のちに夜雪庵金羅(やせつあん きんら)の号で東京の人気俳人となった彼は、三艸子が二枚看板で事業を軌道に乗せていた頃に再会し、再び心を寄せました。
しかし三艸子は、一時は彼に寄り添うように見せたものの、ある時突然「男絶ち」を宣言し、すべての関係を断ってしまったのです。

画像:歌麿の「深川の雪」18世紀末 public domain
「千人斬りの芸者」伝説が誕生
昔から三艸子を見守っていた近藤栄治郎は、芸者として一時代を築いた三艸子が「女を引退する」のは惜しいと考えました。
そこで「千人斬りを成就したことにして盛大に祝おう。人気芸者としての花道にしよう」と提案したといいます。
当時、「千人斬りを達成した女性は、心願がかなって菩薩になる」という俗説がありました。
今まで三艸子が関係を持った旦那衆や殿様の数を数えると、ちょうど10人だったといいます。
そこで栄治郎は、「十という字に、斜めの一本線(ノ)を加えると“千”の字になる」と言い出しました。
自分をその一本として加えれば、千人斬りが完成するという洒落です。
そして、小三の引退と新たな門出を祝う宴が催され、「千人斬り達成」を宣言したのです。
集まった馴染み客たちも、「この人なら本当にやりかねない」と洒落に乗って楽しんだのかもしれません。
この噂は尾ひれをつけながら広まり、三艸子は次第に「千人斬りの芸者」として伝説的存在になっていきました。
直接会ったことのない人々も、錦絵や豪胆な逸話を通じて語り継ぎ、知らぬ間に「本当に千人を斬った」と信じられていったのでしょう。
三艸子は76歳のとき、記者の取材に対して
「年を取るのはきらい。77歳になるので、17の祝いとでも名付けましょう」
と笑って答えたと伝えられています。
松の門三艸子は、大正3年8月22日に没しました。享年83。

画像:月岡芳年の「風俗三十二相 さむさう 天保年間深川仲町芸者風俗」明治21年 public domain
三艸子が残した句
「永き世の 夢のさめたる 心地して 今ぞ誠の うつつなりけり」
三艸子が晩年に詠んだと伝わる一句です。
彼女は、美貌と勝ち気な性格を武器に、大名から幕末の志士まで幅広い客を相手にし、深川随一の人気芸者として名を馳せました。
しかし、この一句からは、長い夢の舞台を終え、ようやく自分本来の姿に戻ったような静かな安堵の気配も感じられます。
波乱に満ちた人生を歩んだ女性の、穏やかな余韻を残す一句といえるのではないでしょうか。
参考:
『悲願千人斬の女』小沢信男
『戦前エキセントリックウーマン列伝』平山亜佐子
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
























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