宗教

「なぜ戦国の戦場に僧侶がいたのか?」従軍僧・時宗の僧たちの知られざる仕事とは

画像:戦場に佇む時宗の僧 イメージ public domain

戦国の合戦といえば、名将たちの采配や武功が語られます。

しかし、刃が交わるその傍らで、静かに戦場に立ち続けた人々がいました。

「南無阿弥陀仏」を唱えながら倒れた兵を弔い、死にゆく者の手を握り、ときには傷ついた身体に薬を施した僧侶たち、それが時宗(じしゅう)の僧でした。

では踊念仏で知られる彼らは、なぜ血煙の立つ戦場にいたのでしょうか。
それは、彼らの役割が単なる祈り手にとどまらなかったからです。

戦死者の供養、兵の心の慰撫、そして応急の医療行為。
さらには、戦場の露と消えた武将たちの最期をその親族に伝える役目。

乱世の最前線で、時宗の僧たちは「いのちの後始末」と「こころの支え」を担っていたのです。

戦場に立った時宗の僧たち

鎌倉時代末期から南北朝の争乱期にかけて、命のやり取りが日常となる合戦の場に、不釣り合いとも思える人々の姿が見られるようになります。

それが従軍僧、すなわち開祖・一遍(いっぺん)にはじまる時宗の僧たちでした。

画像:時宗の開祖・一遍像(藤沢市清浄光寺)Utudanuki CC BY-SA 4.0

時宗は鎌倉時代に誕生した、いわゆる鎌倉新仏教の一つです。

宗祖を一遍、二祖を真教とし、名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころとする浄土教系の一宗派でした。

その教えは、「大悲本願を仰ぎ、念仏に生き、念仏を喜びとする」というものです。

すなわち「大慈悲の阿弥陀仏にすべてをおまかせし、今この瞬間の念仏を何よりも大切にする」という姿勢です。
仏の光明の中に生かされていると気づくとき、人の暮らしは感謝と喜びに満ちると説きます。

さらに時宗は、「我執=自分中心の思いを離れよ」と教えます。

家業に励み、人と和し、いま与えられたひと時を大切に生きる。
その先にこそ極楽往生の道が開かれると説くのです。

画像:『一遍聖絵』 熊野権現の示現 public domain

開祖一遍の伝記である、『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』には、乞食や賤民など、当時社会の周縁に置かれた人々の姿が数多く描かれています。

また当時「悪党」と呼ばれ、体制側から反抗勢力とみなされた人々が一遍を擁護し、その布教を支えたことも知られています。

時宗の僧たちは、教えを言葉だけでなく行いとして実践していました。
自分の立場や安穏を守るのではなく、もっとも弱く、もっとも顧みられない場所へ足を運ぶ。それが彼らの念仏でした。

だからこそ血煙の立ちこめる戦場もまた、彼らにとって避けるべき場所ではなかったのです。

戦死者の供養 〜敗者にも十念を手向ける

画像:和田合戦之図 public domain

合戦が終わった後、戦場には無数の亡骸が残されました。

身分の高い武将は丁重に弔われることがあったものの、雑兵や足軽の多くは、そのまま野に晒されることも珍しくありませんでした。

それが敗者の現実でもあったのです。

時宗の僧たちは、そうした亡骸に向かって念仏を唱えました。
これは、時宗がほかの宗派とは異なり、早くから死体の処理や葬礼に関与したことと無関係ではなかったようです。

戦いの上に命を散らした者に、「南無阿弥陀仏」の十念を手向ける。

それは戦の勝敗を超えて人の死を等しく受けとめ、人間の尊厳を守る営みでもあったのです。

死にゆく者の心の慰撫 〜最期の念仏

画像:清浄光寺の一遍上人像 public domain

戦場では、致命傷を負いながらもすぐには息絶えない者が少なくありませんでした。

その耳元で念仏を唱え、手を取り「ともに極楽へ参ろう」と語りかける。それが従軍僧の役目でした。

時宗の教えは、「ただ今の念仏」を重んじます。
過去の罪も、武功も、後悔も、その瞬間の念仏にすべてをゆだねる。

死にゆく者にとって、その一声は恐怖を和らげる最後の拠りどころになったのではないでしょうか。

戦場で行った応急の医療処置

中世の僧侶は、薬草や施療にも通じていました。

時宗の僧は戦場で傷ついた者に、傷の手当てや止血などの応急処置を施すことも役割の一つだったと考えられています。

もちろんそれは、現代の医師のような専門医療ではありません。
しかし、「助けられる命は助ける」という姿勢は、時宗の「我執を離れる」という教えの実践でもありました。

祈りだけでなく、手を動かし命を救うこと。
念仏と医療行為は、戦場で並び立っていたのです。

最期を伝える者 〜戦場と親族をつなぐ

画像:山名氏清 public domain

戦場で露と消えた者の家族に、その最期の様子を伝えることも時宗の僧たちの大切な役目でした。

もっとも、常に付き添うことができたのは主将クラスの上級武士に限られていたようです。
武将の中には、戦場に赴く際、個別に従軍僧を同道させた例も見られます。

彼らは「檀那の一大事(戦死)を見届ける」こと、そして遺品と最期の様子を故郷の妻子へ伝える役目を担いました。

たとえば、足利義満が山名氏清を討った明徳の乱では、『明徳記』に「奥州(氏清)ニ付申タリケル時衆」とあり、氏清の死が御台所に報告されたことが記されています。

また、この乱で戦死した上級武士たちにも、従軍僧が妻に遺品を届けるとともに、その最後の様子を語って聞かせています。

戦場と故郷の親族を結ぶ、それもまた、念仏の行脚を続けた時宗の僧ならではの働きだったのです。

画像:『一遍上人絵伝』「福岡の市」 public domain

多くの命を奪った、戦国の合戦。

しかしその傍らには、奪われた命を受けとめ、残された者の心を支えようとした人々がいました。

勝者でも敗者でもなく、敵でも味方でもない立場で、ただ念仏を携えて立ち続けた時宗の僧たち。

乱世の歴史は、刀や槍だけでつくられたのではありません。
名もなき祈りもまた、確かにその一部だったのです。

※参考文献
村井康彦著 『武家社会と同朋衆』 筑摩書房
文/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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