幕末の京の治安悪化
京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末にあって文久2年(1862年)から慶応3年(1867年) までの僅か6年ほどの短い期間のみに徳川幕府によって設けられた職位でした。
当時の京の都は尊王攘夷派の志士達がその活動を先鋭化させており、佐幕派の人物への誅殺行為が横行するなど著しく治安が悪化した状況にありました。
そうした状況下にあって、それまでの京都所司代や町奉行所を担っていた徳川家譜代の家が担っていた役職の力では、京における幕府の威信を示す程の警備力が不足となったことから、譜代の家柄よりもより大きな家名と、それに伴う軍事力を行使しうる新たな役職として設けられたものが京都守護職でした。
松平容保の就任
京都守護職は、同じく当時の幕政の頂点として設けられた役職であった政事総裁職に就任した越前の松平春嶽と、将軍の後見職にあった一橋慶喜が行った文久2年の幕政改革で新設されました。
京都守護職には会津の松平容保が推されましたが、当初は会津藩の財政的な窮乏からその就任を固辞していました。
そのため春嶽が、会津藩の初代藩主であった保科正之の「会津藩は将軍家を守護すべき存在」という遺訓を盾に容保に詰め寄り、容保は半ば仕方なく引き受けたものと伝えられています。
政治的な交渉も担当
京都守護職は、徳川幕府において大阪城代、京都所司代、京・大阪・奈良・伏見の奉行を統べるものであり京以外でも畿内全域への影響力を有していました。
京においては徳川将軍やその後見職などの留守時にあって、徳川幕府の最高責任者という位置づけであり、幕閣の老中の傘下ではなく、将軍の直轄とされるなど強固な権限が委譲されていました。
また京を守護することが主目的とはいえ軍事力を背景にした物理的な治安維持だけでなく、朝廷や各藩、関連する幕府の各種の機関との政治的な交渉にも重きが置かれていました。
新選組も傘下
京都守護職は、京においては京都所司代、京都町奉行、京都見廻役を統べる役職となり、見廻役の下に設けられた幕臣で構成された京都見廻組も配下としていました。
それでも当時の京の治安維持には京都所司代を始め、町奉行、会津藩だけでは賄えず守護職の預かる浪人組織としの新選組も傘下に置いて、尊王攘夷派の志士達に対する取り締まりを行いました。
因みに会津藩は京都守護職を務めるにあたって、凡そ1,000名の藩士らを京に常駐させ有事に備えていました。
一枚岩ではなかった幕府
京都守護職は京において幕府を代表する一方、容保が朝廷側、孝明天皇を尊重する姿勢を見せていたこともあり、必ずしも徳川幕府と一体とは言えず、幕閣では容保を罷免しようとすることも多々ありました。
容保自身も請われて就任したとはいえ、慶応2年(1866年)の末に慶喜が将軍となると意見の相違が表面化し、自身の体調を口実にして守護職の辞職を願い出るなど、幕府としての足並みが揃っているとは言えない状況でもありました。
京都守護職の廃止
慶応3年(1867年)10月、慶喜が大政奉還を行ったことで徳川幕府の政権は事実上終了しました。
しかし慶喜は将軍職を継続し、京都守護職も置かれたままでした。
これを牽制すべく薩長の新政府は、同年12月(1868年1月)に王政復古の大号令を発すると、将軍職を始め京都所司代、京都守護職も廃止して自らの支配権を示しました。
この後の戊辰戦争においては錦旗を掲げた新政府軍が徳川慶喜、松平容保を朝敵に挙げる事になり、慶喜は恭順の意を評して謹慎するも、会津藩は悲劇的な戦禍へと進んでいく運命を辿りました。
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