佐々木只三郎とは
佐々木只三郎(ささきたださぶろう)とは、坂本龍馬を暗殺した実行犯だとされている。
神道精武流の使い手で「小太刀日本一」と言われた剣豪でもあった。
14代将軍・徳川家茂の上洛に伴う護衛部隊「浪士組」を騙した清河八郎を討ち取り、尊王攘夷の過激な志士たちで治安が悪化した京都において、新選組と共に「京都見廻組」の実質的なトップとして治安維持に奔走した人物である。
見廻組と新選組は、似通った京都の治安維持という任務につきながら、今日伝わるエピソード数が全く違い、新選組の活躍に脚光が当てられがちだ。
その中で、見廻組の名が知られているのは、佐々木只三郎が坂本龍馬暗殺の実行犯の可能性が極めて高いからだろう。
坂本龍馬の暗殺については150年以上もたった今でも謎が多く、見廻組に坂本龍馬暗殺の記録はない。
元見廻組の隊士の後年の証言によると佐々木只三郎が指揮を執った可能性が高いが、それが事実だという確証もないのである。
今回は、激動の幕末期を駆け抜け、清河八郎、坂本龍馬を暗殺したとされる「小太刀日本一」の剣豪・佐々木只三郎の生涯について解説する。
出自
佐々木只三郎は、天保4年(1833年)会津藩士・佐々木源八の三男として会津で生まれた。
只三郎の長兄は、後の会津藩公用人・手代木勝任である。
通称は「唯三郎」または「泰昌」とも、諱は「高城」であるが、ここでは一般的に知られる「只三郎」と記させていただく。
只三郎は幼少の頃より会津藩の剣術師範・羽嶋源太から神道精武流を学び、メキメキと上達して奥義を極めた。
槍は沖津庄之助に学んで熟達し、若い頃から剣術・柔術・槍術に非凡な才能を示していたという。
只三郎が奥義を極めた神道精武流とは、柔術と剣術を合わせた組打ち術を特色とする流派であった。
安政5年(1859年)只三郎は親戚であった旗本・佐々木矢太夫の養子となり、御書院番与力に任じられた。
※佐々木矢太夫(弥太夫とも)は只三郎の親戚ではなかったとする説もある。
只三郎は左利きであったため、やがて「小太刀日本一」と評されるような腕前になり、旗本最強の剣客として20代後半で幕府講武所の剣術師範を務めるようになった。
浪士組
只三郎は旗本・松平忠敏と尊王攘夷派の浪士・清河八郎の案に同意し、文久3年(1863年)2月の第14代将軍・徳川家茂の上洛に際する護衛部隊「浪士組」を、江戸において募集した。
浪士組の参加者は、今まで犯した罪を免除(大赦)され、文武に秀でた者を重用するという条件であった。
さらに身分も年齢を問わなかったので予想外に人が殺到した。
この中には、後に新選組を結成する芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司ら、230余名が参加していた。
文久3年(1863年)浪士組は正月に江戸を出発し、2月23日に京都へ到着する。
只三郎は、幕府講武所の槍術世話心得を務める速水又四郎と共に、浪士取締役として幕府派遣の役人として同行した。
しかし浪士組が京都に着くと、清河八郎は「浪士組の目的は朝廷の為に尊王攘夷を実行することである」と主張し、江戸へ帰還することを宣言したのである。
これに反発した試衛館の近藤勇たちや芹沢鴨らのグループ24名は、分派して京都に残留した。
只三郎は、近藤や芹沢らを京都守護職・会津藩松平家の支配下に置くように取り計らったという。
清河の野望のために利用された只三郎は、清河を危険人物と感じ取り排除に動き出すのである。
清河八郎 暗殺
清河たちは江戸へ帰還すると、軍資金調達のため商家への押し込みなどを行っていた。
只三郎が江戸に帰還すると、幕府から清河八郎の暗殺を命じられる。
清河は北辰一刀流千葉道場の免許皆伝であり、腕の立つ只三郎らが選ばれたのである。
同年4月13日、清河が同志の金子与三郎宅から帰宅する途中の麻布一の橋付近において、只三郎は窪田泉太郎らと共に清河を暗殺した。
暗殺にあたり只三郎は「腕の立つ相手を確実に仕留めるには、3人同時の斬り込みでなくてはならない」と言って3人で闇討ちを仕掛けたという。
同時に清河派の幕臣らも処罰され、目的を失った清河派の浪士たちは松平忠敏を盟主に新たに「新徴組(しんちょうぐみ)」を結成し、幕府より江戸市中警護や海防警備の命を受け、庄内藩酒井家の預かりとなった。
京都見廻組
京都では、尊王攘夷派と会津藩を中心とする佐幕派が対立したことから、長州藩を始めとする尊攘過激派を朝廷から一掃する「八月十八日の政変」が発生した。
しかし、尊攘過激派らによる反幕府の動きはその後も続いたため、幕府は京都の治安維持のために「京都見廻役」という役職を設置した。その傘下として選りすぐりの使い手を選抜したのが「京都見廻組」である。
京都見廻組は譜代席と呼ばれる旗本・御家人を中心とした400人の部隊を目指したが、隊士がなかなか集まらなかった。やむなく御家人の次男や三男などの「部屋住み」も対象にしてようやく300人余りを集める。
只三郎は、京都見廻組の管理役である見廻組与頭勤方の一人に命じられた。
元治元年(1864年)7月19日に起こった長州藩vs幕府側の「禁門の変」では、見廻組の大半の隊士はまだ京都に到着しておらず、忠三郎ら与頭勤方4名と浅尾藩士らが参戦、これが見廻組の初陣となった。
8月からは見廻組も新選組と同様に京都の市中警備巡察を行うが、当初は任務が同じであることから両者が張り合い対立しがちであった。
その後、お互いに提携し京都守護職、京都所司代の人数も含めて市中巡察コースを分担し、新選組と共に京都見廻組は尊攘志士たちから恐れられていった。
京都見廻組のトップは、浅尾藩主・蒔田広孝と旗本・松平康正だったが、慶応元年(1865年)只三郎は見廻組与頭に昇格し、実質的には只三郎が実務を取り仕切っていた。
坂本龍馬 暗殺
見廻組が関わったとされる事件で最も有名なのが、慶応3年(1867年)11月15日に起こった「近江屋事件」だ。
近江屋に潜伏していた坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件である。
坂本龍馬を暗殺するために只三郎は、今井信郎・渡辺吉太郎・渡辺篤・桂早之助・世良敏朗・高橋安次郎の6人を選抜する。
※「坂本龍馬大事典」という図書では、只三郎とこの6人の他に、桜井大三郎・土肥仲蔵の8名とされている。また今井信郎の口上では、只三郎・今井信郎・渡辺吉太郎・桂早之助・世良敏朗・高橋安次郎・桜井大三郎・土肥仲蔵の7名が挙げられている。
当初は新選組の犯行と考えられたが物証がなく、明治3年に元見廻組の今井信郎が自供したことにより、只三郎ら見廻組の仕業だと認められた。
11月15日、近江屋に潜伏していた坂本龍馬と中岡慎太郎のもとに、十津川郷士を名乗る複数名が現れ「才谷梅太郎先生はいらっしゃるか」と龍馬の下僕・藤吉に挨拶をした。
坂本龍馬の変名を知っていたことと、十津川は古くから勤王志士の出る地であったことから、藤吉は龍馬に取次をしようと客に背を向けた。
その瞬間、藤吉は殺害された。そして剣客たちは階上に駆け上がり、龍馬の頭蓋に一撃を加える。
傍にいた中岡慎太郎も小太刀で応戦するが、複数の傷を負って倒れてしまった。
龍馬は頭部に三太刀を受けてほぼ即死、中岡は十数か所を斬られ2日後に死亡した。
坂本龍馬暗殺には様々な下手人説があるが、「もうよい、早く引き上げろ」という頭領格の者の声を中岡は聞いたという。
狭い部屋の中での犯行という点では「小太刀日本一」の使い手であり、冷徹な暗殺者としての只三郎の姿が一番しっくりとくる。
最期
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが発生する。
只三郎ら見廻組は旧幕府軍として戦い、忠三郎は白刃を振るって新政府軍と一進一退の攻防を繰り広げたが、樟葉(現在の枚方市付近)で腰に銃弾を受け、重傷を負ってしまう。
和歌山に敗走中、痛みに苦しんでいた時に介抱してくれた兄・手代木勝任から「貴様は今までずいぶん人を斬って来たのだから、これぐらいの苦しみは当然だろう」と言われ、忠三郎は思わず苦笑したという。
撃たれた数日後の慶応4年(1868年)1月12日、只三郎は死去した。享年36であった。
おわりに
幕末の英雄である坂本龍馬暗殺集団のリーダー格だった佐々木只三郎は、日本の中でも悪役の代表格となってしまった。
坂本龍馬暗殺の真偽のほどは定かではないが、清河八郎を暗殺した手口といい、手段を選ばない冷徹なやり方は犯人と断定されても不思議ではない。
ただ坂本龍馬や清河八郎の暗殺は、職務に忠実な幕臣としての行動であり、徳川を支えようとする清廉な武人の一人だったとも言えるのではないか。
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