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お鯉とは
日露戦争の最中、当時の総理大臣・桂太郎に気に入られ愛妾となった芸妓がいた。
その芸妓の名前はお鯉(おこい)。
お鯉は日露戦争の裏で桂の苦労を目の当たりにし、自身も民衆による焼打ち事件に巻き込まれて命を狙われた。そしてその後も、お鯉はいくつもの政治の裏面史に立ち会ったのだった。
今回はお鯉の生涯と、その背景について詳しく探っていきたい。
6歳で引手茶屋の養女となり、14歳で花柳界入りし名妓となる
お鯉の旧姓は小久江照といい、明治13年(1880)に東京四谷の漆問屋の家に生まれた。
この漆問屋は老舗で資産もあったが、商売が傾いたため、お鯉は6歳の時に新宿で引手茶屋を営む安藤兼作の養女となった。
しかし、この養家の商売もうまくいかなくなり、お鯉は14歳で花柳界に入り新橋芸者になった。
やがてお鯉は、歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められて結婚したが、別れて花柳界に戻った。
お鯉はその美貌ときっぷの良さから、伊藤博文や山縣有朋などが贔屓にする名妓となる。
当時の日本は日露戦争の最中で、時の総理大臣・桂太郎は日夜、戦争に頭を悩ませていた。
さらに、桂の正妻・かな子は病弱で体調を崩して伊香保温泉で療養中だったため、忙しい桂の身の回りを世話してくれる女性がいなかった。
そんな桂の身を案じた元老・山縣有朋は「お鯉のような活発な女性が桂の世話をすることで、桂の気分も晴れて元気になるだろう」と考えた。
そして、山縣はお鯉を桂に引き合わせたのだ。
時の総理大臣の愛妾となり、官邸に住み込む
5月某日、川崎にある実業家田嶋の別荘で山縣、井上馨、児玉源太郎らが集まり昼食会が開かれ、そこに桂とお鯉も招待された。
そこで桂とお鯉は言葉を交わした。
お鯉は「あなた方は人をおもちゃになさるから嫌です。いくら芸妓でも1人の人間です。生涯のことを考えてくださらないのであればお断りします」と桂に伝えた。
それを聞いた桂は「面白いことを言うね。よし、わかった」と答えたという。
こうしてお鯉は桂に気に入られ、落籍されることになった。そして、永田町の首相官邸から近い赤坂榎坂にある一軒家に住むこととなったのだ。
しかし、多忙な桂はなかなかお鯉のもとに来ることができず、過労による体調不良でみるみるやせていった。そこでお鯉は官邸に住み込んで桂の身の回りの世話をするようになった。
この時代、政治家が妾を持つことは珍しくなかったが、あまりにもおおっぴらであったため、桂とお鯉のゴシップが新聞に書き立てられたという。
「日比谷焼打ち事件」で命を狙われる
桂は首相として日露戦争に冷静に対処し、日本は大国ロシアに勝利した。
日本はポーツマス条約で朝鮮における優越権、遼東半島租借権などを獲得したが、軍事費を埋め合わせるための戦争賠償金を得ることができなかった。
そのため戦後の生活に不安を抱いた民衆は、講和反対の国民大会を東京日比谷公園で開いた。
そして大会終了後、民衆は首相官邸や国民新聞社などを襲撃し、東京市内の警察署や交番を焼き払ったのである。(※日比谷焼打事件)
夜になると、暴徒の一隊が榎坂にもやって来た。
お鯉は家の一間に籠っていたが、外からは「桂とともにお鯉を殺せ!」「国賊の妾をやっつけろ!」という叫び声とともに、石が投げ込まれ始めた。
騒ぎは大きくなり、警官との揉み合いも始まった。お鯉は一緒にいた植木屋の機転で隣家の畑に隠れることに成功した。
何とか助かったお鯉は、騒ぎが落ち着くのを待って家に戻ったが、近所の人々から「首相の妾が住んでいると危険なので立ち退いてほしい」と迫られた。
しかし、他に行くところもないお鯉は、家の玄関に「貸家」という札を貼り、真っ暗な家の中でひっそりと過ごしたという。
事件後20日目にようやく官邸から桂の使いが来た。そして、使いの者はお鯉に桂の言葉を伝えた。
「長々厄介であった。自分の騒ぎにまで巻き込んでしまい誠に申し訳なく思っている。講和のことでこのような騒ぎを起こした以上、自分は身を引いて世の中を鎮めなければならない。あなたはあなたで身の振り方をつけてほしい」
そして1万円の札束をお鯉の前に置いた。
お鯉は桂の考えが分からないわけではなかったが、あまりにも自分を馬鹿にしていると腹を立てた。
そして、お鯉は使いの者に「身を引くことは承知したが、お金は持ち帰ってほしい」と言ってつき返したのだった。
正妻から許しを得られ、桂と再会を果たす
桂の正妻・かな子は、自分が療養中にお鯉が首相官邸に出入りして桂の世話をしていたことをよく思っておらず、「焼打ち事件が起きたのもお鯉のせいだ」と考えて夫の桂を責めていた。
すると、明治政財界の黒幕と呼ばれた杉山茂丸が、仲介役を買って出た。
杉山はかな子夫人に、お鯉が山縣らから頼まれて桂の世話をしていたこと、焼打ち事件で大変な目に遭ったことなどを説明し、「このままお鯉を見捨てると桂の不名誉になる。お鯉の面倒を見てほしい」と頼み込んだ。
かな子夫人も折れ、お鯉は山縣の別荘で桂と再会することができた。そしてお鯉は麻布にある家に住むこととなった。
桂は週末になるとお鯉のところに行き、本邸には持ち込めない密談や裏取引の数々をそこで行ったという。
桂が亡くなるも葬儀にすら参列出来ず。そしてその後
桂は第2次内閣で、韓国併合や大逆事件による社会主義者への弾圧などの業績を残した。
明治45年(1912)7月20日、桂は明治天皇御不例の報を海外視察中に聞き、帰国中に訃報に接した。帰国後、桂は内大臣兼侍従長に任命され、政治的引退を意味する内大臣の重職に就いた。しかし、大正元年(1912)12月、異例の詔勅によって第3次桂内閣が成立した。
この頃、桂の体は病に侵されており、翌大正2年(1913)3月後半には絶望的な状態になった。桂は鎌倉の別荘で静養し、その世話は主にお鯉がしたが、かな子夫人が来る時にはお鯉は東京に戻らねばならなかった。
桂は「死ぬ時にはお鯉に見守られたい」と願っていたという。
ある日、かな子夫人が鎌倉に来るためお鯉が帰ろうとすると、桂はお鯉を引き留めた。
桂は「お前は山百合がほしいと言っていたな。看護師に山百合を掘らせ、それを持ち帰るがよい」と言った。
これは、少しでもお鯉を長く引き留めたいという、桂の思いから出た言葉であった。
その後すぐ、桂は三田の本邸に戻り、かな子夫人が常に側にいるようになったため、お鯉は桂に近づけなくなった。
10月、桂は本邸で息を引き取った。遺体は解剖され、直接の死因は腹部のガンであることが判明した。
お鯉は桂の葬儀にすら参列することが出来なかったが、遺産を手にすることは出来た。
また、桂の遺児である泰三と正子を育て、桂のおとしだねと言われる芸妓を世話して嫁に出したという。
桂の死後は、待合やカフェを経営したが、昭和9年(1934)に帝人事件に関わり、偽証罪で起訴され有罪となっている。
事件後は出家し、目黒の羅漢寺の尼僧となり、昭和23年(1948)に67歳でこの世を去った。
最終的には出家し、静かな余生を過ごした彼女の生涯は、歴史の裏側で重要な役割を果たした一人の女性の物語として、後世に語り継がれている。
参考文献 :
千谷道雄「明治を彩る女たち」文藝春秋
福田和也「総理の女」新潮社
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