明治時代の終わり頃、「日本一の美人」と称された萬龍(まんりゅう)という芸妓がいた。
その名は「酒は正宗、芸者は萬龍」という流行歌が生まれるほど、広く知られていたという。
彼女は雑誌『文芸倶楽部』が主催した芸妓の人気投票「日本百美人」で9万票を得て第1位となり、絵葉書美人としても大変な人気を博した。
箱根で洪水に遭遇した際、東京帝国大学(現・東京大学)の学生に救われたことをきっかけに、その学生と結ばれる。しかし、このロマンスは短命に終わり、学生は程なくして他界してしまう。
この記事では、波乱に満ちた万龍の生涯を詳しく紐解いていく。
目次
7歳で芸妓置屋の養女となり、14歳で初お披露目し注目される
萬龍(本名・田向静)は、明治27年(1894年)7月に東京日本橋で運送屋の下請けを営んでいた田向初太郎と濱の間に生まれた。
その後、父親が肺病にかかって亡くなり、家計が困窮したため、彼女は7歳の時に東京赤坂の芸妓置屋・春本の蛭間そめの養女となった。
父の初太郎は郷里で亡くなったため、萬龍は父の死に目には会えなかった。
萬龍は赤坂の小学校に入学したが、その美しさと華やかな服装から「他の子供たちに悪い影響を与える」ということで、学校側から通学を拒まれることがあったという。
その後、萬龍は14歳で初めてお披露目をし、芸妓見習いである半玉の時から注目を集める。
劇作家であり小説家の長谷川時雨は、この時期の萬龍を「ありふれた芍薬の莟ではなく、類稀な絶品の芍薬を見た気がした」と表現し、その美しさを称賛している。
絵はがき美人として人気を博す
萬龍は、雑誌『文芸倶楽部』が実施した、全国から美人芸妓写真を募集して読者投票で100人を選ぶという『全国百美人』で、9万票を獲得し第1位となった。
さらに、絵はがき美人としても人気を集めた。
日露戦争時、絵はがきは軍事郵便として使用され、その人気は爆発的に広まった。
軍事郵便とは戦地の兵士と故郷の家族がやり取りをする手紙であり、絵はがきもその一環として多く使用された。そのデザインは多岐にわたり、日本の風景や華族の写真が描かれたものもあったが、中でも特に目立ったのが芸妓の写真絵はがきである。
人気芸妓の絵はがきは、現代のタレントのブロマイドのように飛ぶように売れたのだ。
美人芸妓の絵はがきは、戦地の兵士たちへの慰問品として送られ、大変喜ばれた。この慰問用絵はがきが流行したことにより、戦争後も芸妓の絵はがきは多く作成され続けた。
当時の芸妓の中には上流夫人などに出世する者も多かった。そのような一流の芸妓は、美しいだけでなく、あらゆる芸事を身につけており、教養もあるため、上流夫人の役割をこなせる実力があった。
彼女たちは、多くの男性の憧れの対象だったのだ。
小柄で不思議な魅力を持つ芸妓・萬龍
当時の萬龍の人気は絶大であった。
彼女の写真絵はがきは飛ぶように売れ、新聞には『萬龍物語』が連載され、化粧品や百貨店の広告にも登場した。
流行歌で「酒は正宗、芸者は萬龍」と歌われ、萬龍の名前を真似して「何龍」と名乗る芸妓も現れるほどであった。
萬龍は、当時の典型的な美人というわけではなく、丸顔で近代的なタイプの美人であった。小柄でぽっちゃりとした体型で、どこかおっとりとした令嬢のような雰囲気を持っていた。
贔屓客によれば、「萬龍は小柄で、抜きんでるほどの美人ではなく、芸や接客も特別なものではないが、それらを超越する不思議な魅力と雅味(上品で味わい深い様子)を持ち合わせていた」という。
世間をわかせた、大学生と芸妓のロマンス
明治43年(1910年)夏、萬龍は箱根の旅館に滞在中に洪水に遭った。
その時、貧血を起こした萬龍は東京帝国大学(現・東大)の学生・恒川陽一郎に助けられた。
2人は名前を教え合うことなく別れたが、翌年の宴会で再会し、恋に落ちたという。
恒川は作家・谷崎潤一郎の同級生であり、同人誌『新思潮』に参加していた文学青年であった。
恒川は萬龍を春本から引き離すために金策に奔走し、谷崎や義兄の代議士・風間礼助に助けを求めた。
谷崎からみた萬龍の印象は「眼の美しい聡明な女性」であったという。
恒川の奔走の最中、萬龍がインクを飲んで自殺未遂を起こす騒ぎもあったが、大正2年(1913年)に二人は結婚した。
このロマンスは、当時の新聞や雑誌で大きく取り上げられた。
翌年、大正3年(1914年)には恒川が大学を卒業し、小説『旧道』を出版した。
しかし結婚4年目の大正5年(1916年)、恒川は病死し、萬龍は20代前半で未亡人になってしまった。
世の人々の関心を集めた『萬龍の今後の生き方』とその後
当時、婦人解放運動が盛んであり、萬龍の今後の生き方が注目された。
女性教育者・嘉悦孝は保守的立場から、萬龍が貞操を守れば「偉大な人」「婦人の典型」となり得るとしたが、「姑がすすめるなら再婚しても良いだろう」と主張した。この意見が、まず常識的な意見として当時の多数派を占めた。
大正6年(1917年)、萬龍は建築家・岡田信一郎と再婚し、岡田の看護と設計事務所の手伝いに専念する。
岡田は歌舞伎座や明治生命館の設計で知られる建築家であったが、昭和7年(1932年)に亡くなり、萬龍は再び未亡人となる。
その後、萬龍はひっそりと生活し、遠州流の茶道の師として多くの弟子を指導し慕われたという。
そして、昭和48年(1973年)12月、萬龍は79歳でこの世を去った。
人気芸妓であった萬龍は、生涯で2度も夫に先立たれる悲劇に見舞われたが、後半生を茶道の師として過ごし、多くの弟子から敬愛される存在となった。その慎み深い生き方は多くの人々に感銘を与えた。
参考 :
谷崎潤一郎「青春物語」中公文庫
野元北馬「萬龍未来記」南博編「近代庶民生活誌」第十巻 三一書房
ポーラ文化研究所編「幕末・明治美人帖」新人物往来社
文 / 草の実堂編集部
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