幕末明治

西郷と岩倉使節団について調べてみた

討幕を成し遂げ、日本を新たな時代に導いた西郷隆盛は政府の要人となった。版籍奉還、廃藩置県など西郷はひとつとして異論を唱えなかった。

そして、欧米使節団の派遣についても意見を挟んでいない。西郷の脳裏には、ただただ内政重視の思いがあったのだろう。

岩倉使節団

岩倉使節団

【※岩倉使節団の中心メンバー。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。wikiより】

明治4年(1871年)、廃藩置県を成功させた4ヵ月後の11月12日、政府首脳が大挙して海外へ出掛ける使節団が欧米に向けて出発した。

特命全権大使を右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)が務め、副史として木戸孝允(きどたかよし/桂小五郎)、大久保利通伊藤博文などで組織した総勢48名の遣外使節団、通称「岩倉使節団」である。

しかし、太政官政府が全権を掌握したばかりの重要な時期のことだった。太政官政府とは、内閣制度が成立するまでの明治新政府の制度である。この時、各国首脳への表敬訪問や幕府が結んだ不平等条約の改正への打診などが目的で、もっとも重要な条約改正の本交渉の権限は持っていなかった。政府内では反対するものが後を絶たず、太政大臣・三条実朝(さねとも)も実力者である大久保と木戸の外遊に難色を示したが、押し切られてしまう。

当初、使節団は大隈重信を中心とした小規模なものだった。しかし、大久保はぜひとも海外を見て歩き、今後の日本の方向性を決める指針としたかったのだ。

大久保の信頼

岩倉使節団

【※大隈重信 wikiより】

その一方で大久保は、大隈が条約改正の主役となることに不信感を抱き、自分の留守中に木戸ら長州勢の発言力が伸びるのも防ぎたかった。そこで、大隈使節団案を潰し、木戸を海外に同行させることで長州勢の頭を押さえようとしたのである。そして、その留守を西郷に任せた。大久保も西郷になら安心して政府を預けられる。西郷なら大久保の勢力を支えてくれると思ったからで、西郷もまた大久保の下心を知りつつ快諾した。

岩倉使節団がサンフランシスコに上陸したのは明治4年(1871年)12月6日。大陸横断鉄道でワシントンに到着後、条約改正に向けた交渉を始めようとしたが、アメリカ政府は取り合わない。以後、ヨーロッパ諸国歴訪も合わせ、もっぱら視察に重点が置かれた。

約2年の年月と莫大な国費を使った使節団の功績は、先進諸国の政治や経済、社会、文化などを見て回った体験だけが残った。

留守政府の大規模改革

岩倉使節団がアメリカで挫折を経験している時、西郷を中心とする留守政府はどのような動きをしていたのだろう。使節団と留守政府の間には「なるべく新しい改正をおこなわない」「新規の省官長欠員の補充や管理の増員を行わない」など、12ヵ条の約束が結ばれていた。

となると、留守政府が行えるのは廃藩置県の残務処理ということになるのだが、留守政府はその約束を守らず、すでに準備が進められていた改革を次々と推し進めていった。

まず、明治5年(1872年)8月、フランスの制度をもとにアメリカの教育思想を加味した学制の公布を行っている。教育における四民平等を説き、男女の別なく国民のすべてが教育を受けることと規定した。この年、徴兵の詔が出され、翌年には徴兵制も発布されている。これにより、20歳の男子には徴兵検査を受けた上での3年間の兵役が義務付けられる。

さらに地租改正を発布し、大規模な租税と土地制度の改革も行っている。地価を決め、所有者に地券を発行し、全国一律で地価の3%を地租と定め、納付を義務付けた。

西郷使節と征韓論

岩倉使節団

【※徴兵制を主張した山縣有朋。wikiより】

ただし、それらの新しい改正を推進したのは解明的な官僚たちで、西郷はほとんど関与していないが承認したのも事実だ。例えば徴兵制をもっとも強く主張したのは陸軍大輔の山縣有朋(やまがたありとも)である。しかし、名目上は参議の役職にあり、軍部の最高指導者だった西郷の責任において採用された。実は、西郷は徴兵制に反対の考えだったという。それでもあえて異議を唱えなかったのは、山縣の近代的な軍政に反論するだけの理論を持っていなかったからともいわれている。

ところが明治6年(1873年)に入ると厄介な問題が持ち上がった。朝鮮の大日本公館に搬入されようとした生活物資が妨害され、門前に日本を無法の国と非難する看板が出されたのである。これに怒った政府高官のなかには朝鮮を攻めるべきだとする征韓論が起こり始める。

西郷は相手を刺激するだけだと反対し、自ら使節として乗り込むことを主張した。当時、日本と朝鮮には国交がなく、結ぶきっかけとなる可能性もある。西郷使節は岩倉使節団の帰国を待って正式に発表されるところまで詰められたが、帰国した大久保や岩倉は猛反対した。

使節派遣は戦争に直結する可能性があったからだが、これが征韓論争へと発展していく。

征韓論は西郷主導か?

朝鮮に国交を開くよう求める一方、国内にくすぶる士族の不満を逸らすため出兵するというのが征韓論の論旨で、西郷はその主導格といわれている。

しかし、西郷は自らが全権大使として朝鮮へと赴き、国交の回復交渉にあたると言っているが、軍事力に訴えるとは一言も言っていない。むしろ西郷は主戦派を抑えていたと見るべきで、西郷が征韓論の急先鋒といわれるようになったのは征韓論が起こった何年もあとのことなのだ。

西郷の使節派遣を三条実美は認めていた。政府内での立場が危うくなっていた大久保や岩倉らは征韓論にいったん敗れ、大久保は辞表を出している。そこに実美が病気で倒れるという思わぬ事が起こった。太政大臣代理に就いたのは岩倉具視。岩倉は大久保を抱き込み、西郷使節の中止を図ったのではないかと見る向きがある。かくして西郷派遣策は却下され、西郷は辞職することになる。

やがて、野に下った西郷は西南戦争という大きな渦に巻き込まれてゆくことになるのだ。

関連記事:西郷隆盛
西郷隆盛と長州征伐について調べてみた
西郷隆盛と勝海舟はいかにして江戸無血開城を成し遂げたのか?
西郷隆盛が西南戦争でなぜ戦ったのか調べてみた

Amazon:『素顔の西郷隆盛 (新潮新書) 新書』画像をクリック!

gunny

gunny

投稿者の記事一覧

gunny(ガニー)です。こちらでは主に歴史、軍事などについて調べています。その他、アニメ・ホビー・サブカルなど趣味だけなら幅広く活動中です。フリーでライティングを行っていますのでよろしくお願いします。
Twitter→@gunny_2017

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「剣豪」から「名指揮官」に変貌した土方歳三 【日本最大の内戦~戊…
  2. 斎藤一について調べてみた【新選組】※強さ、剣術
  3. 203高地とは? 「ゴールデンカムイの杉元も戦った日露戦争の激戦…
  4. 「新5千円札の顔」津田梅子 ~日本の女子高等教育に人生を捧げた津…
  5. 毛利敬親【多くの維新の人材を見出した そうせい候】
  6. 明石元二郎 〜日露戦争の影の功労者【一人で日本軍20万に匹敵する…
  7. 【華厳滝に身を投げた夏目漱石の教え子】 藤村操とは ~遺書「巌頭…
  8. 開国以来の日本の悩みの種「不平等条約」との戦いの歴史

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

「田畑政治ゆかりの地」案内板設置全11ヶ所へ行ってみた

──浜松城(静岡県浜松市)、引馬城(静岡県浜松市)と続いて、次はどこのお城?いえいえ…

「本能寺の変の原因?」信長と光秀の因縁の寺~ 法華寺 (諏訪市)に行ってみた

天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都の本能寺で起こった明智光秀による織田信長への謀反「本…

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される

歴史に名を残す始皇帝中国の歴史において400以上の皇帝が現れては消えていった。しかし最も…

なぜ豊臣家は滅んだのか? 理由や原因を考察

日本一の成り上がりストーリーを駆け上った豊臣秀吉。しかし彼が一代で築き上げた豊臣家は豊臣秀吉…

武田信玄は生涯3敗しかしていない!? その3敗をあえて掘り下げる!

今回は、日本の戦国時代において多くの方が「最強」と述べる戦国武将『甲斐の虎』こと武田信玄につ…

アーカイブ

PAGE TOP