性根が悪く、犯罪は朝飯前。欲しいものを手にいれるためなら人殺しも厭わない女性。
そんな「毒婦」と呼ばれた女性たちの逸話は、人々の心を惹きつけるようです。
今回は、日本最大の悪女とも評される「妲己のお百(だっきのおひゃく)」の伝説について取り上げてみたいと思います。

画像:「姐妃の於百」月岡芳年 public domain
スケールの大きな逸話が残る毒婦
「妲己のお百」は、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1764年頃)に生きていた……とされる女性です。
しかし、その実態は伝説に彩られ、謎に満ちています。
それゆえ、後世に「日本最大の悪女」や「日本一の毒婦」として語り継がれるようになりました。
お百は、京都(大阪とも)生まれとされ、美貌と才覚を兼ね備えた女性でした。
しかし、夫殺し・詐欺・脱獄・藩の乗っ取りなど、悪事の逸話は枚挙にいとまがありません。
こうしてお百の悪事の物語は、さまざまなエピソードが加わり、稀に見るスケールの大きな毒婦像が形づくられていったのです。
お百の物語は、小説、講談、歌舞伎、落語など多様なジャンルで題材とされ、今なお現代でも落語家や講談師によって語り継がれています。
12歳で色茶屋に売られた美貌の才女
お百に関する記録本として代表的なのが、江戸時代の講釈師・馬場文耕の作品といわれる『秋田杉直物語』です。
それによると、お百は京都の貧しい家に生まれ、12歳で祇園の色茶屋に売られました。
もともと美貌の持ち主であったうえに、愛嬌と聡明さを兼ね備えており、14歳頃には座敷に上がるようになったと伝えられています。
さらに、書や能、香道などの教養に通じ、儒学や仏教、詩歌・連歌・俳諧といった学問や文芸にも明るかったといわれています。
貧しい環境に育った彼女が、いつどこでどうやって教養を身につけたのかは不明です。
おそらく、一を聞いて十を知るような察しのよさや、人を惹きつける天性の才を備えていたのでしょう。
そして、そんなお百の利発さに目をつけたのが、大坂の富豪・鴻池善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)でした。
彼は、お百の美貌と才覚に惚れ込み、身請けをしたと伝えられています。

画像:「姐妃の於百 岩井半四郎」public domain
役者との密通がばれ、吉原の揚屋の妻に
ところが、お百は商家の妾として落ち着くことはありませんでした。
自分の美貌に自信を持っていたせいか、役者の津打門三郎(津山友蔵)と密通してしまいます。
当然ながら、善右衛門は怒ったものの「世間に知られては己やお店の恥」と、二人を夫婦にして江戸に移住させたのでした。
おそらく、「この女は危険だ」といった商売人の勘が働いたのかもしれません。
ところが、まもなく門三郎は病死してしまいました。
そこでお百は、門三郎の実兄の松本幸四郎(後の四代目市川團十郎)を口説き落とそうとします。
ところが、幸四郎は拒絶。
きっと、お百に関わってはいけない危険な匂いを感じたのでしょう。
次に、お百は吉原の揚屋・海老屋の妻になりますが、案の定、そこでもうまくいかずに別れてしまいます。
そして今度は、田町にある遊女を置く色茶屋・尾張屋の後妻に収まったのでした。
ここで出会ったのが、佐竹藩(久保田藩、秋田藩)の奥家老で、のちに「秋田騒動」の首謀者となる那珂忠左衛門(なか ちゅうざえもん)でした。
懲りないお百は、忠左衛門に口説かれて密通し、それが尾張屋に知られると、那珂家に迎え入れられることになります。
このように、お百は次々と新たな男性と関係を結んでは、別れを繰り返していました。
実に自由奔放で積極的な女性だったようです。

画像:「江戸風俗図 妾」山東京伝 public domain
色茶屋の後妻から武家の妾に
こうして那珂家の妾となったお百でしたが、当初は周囲から「厳格な武家のしきたりなど身につけていないだろう」と見られていました。
しかし、ここでも持ち前の才覚を発揮します。
お百は、佐竹家の奥方や、那珂の勤務先である松平隠岐守の奥方に香道を指南し、さらに歌舞伎や遊楽を勧めるなどして、次第に周囲の女性たちの心をつかんでいきました。
やがて、「秋田騒動(宝暦事件)」として知られる藩政の混乱が久保田藩で起こります。
もともとは銀札(銀の兌換券)をめぐる財政問題でしたが、奥家老の那珂忠左衛門が主君・佐竹義明を骨抜きにして藩を乗っ取ろうと企み、その計画にお百も関わったとされています。
お百は「妹」と称する女性を藩主に近づけさせるなど、陰謀を後押ししたと後世で語られました。
結局、忠左衛門は処刑されましたが、お百は「自分は奉公人にすぎない」と言い逃れ、罪を免れたと伝えられています。
その後、お百は享保の打ちこわしの標的となった悪徳商人・高間伝兵衛の甥である、高間磯右衛門に引き取られました。
このように、お百は数えきれないほどの男性遍歴を繰り返しているのですが、その場その場でなんとかなっているのが、彼女の悪運の強さなのかもしれません。
奉公先の妻を罠に嵌めて、後釜に座る
『秋田杉直物語』を脚色し、実録風の読本として刊行された『今古実録 増補秋田蕗』では、さらにお百の毒婦ぶりが強烈になっています。
その物語におけるお百は、雑魚場の魚売り(漁師とも)の新助の妹で、評判の器量よし。
ところがある日、お百は海坊主の怨念に取り憑かれ、すっかり荒々しい性格になり、肩から胸元にかけて赤い痣が生じました。
その後、お百は取引先である桑名屋に奉公に入り、主人の徳平衛と密通し、妻のお高を追い出そうと企てます。
お百は「お高は番頭と密通し、身ごもった子も番頭の子だ」と言いふらしました。
これを信じ込んだ徳平衛はお高を折檻し、庇った奉公人の佐吉とともに、裸のまま雪の中に追い出してしまったといいます。
お高は引き取られた先で子供を産むものの、海坊主の祟りなのか、赤子は痣だらけでした。
そしてお高は、お百を恨みながら死んでいったのでした。

画像:『絵本小夜時雨』より「海坊主」速水春暁斎 – 龍谷大学図書館 貴重資料画像データベース
お百の最期
お百の最期については諸説あります。
ひとつは秋田騒動に関わり、秋田二十万石を横領しようとした企みが露見して捕縛されたという説です。
また、江戸伝馬町の牢に入れられながらも脱獄に成功し、追手の目明しを殺害したという説や、再び捕らえられて佐渡に流されたものの、島守の男をたぶらかして島抜けしたという逸話も残されています。
いずれも確かな史実とは言えませんが、「お百ならばやりかねない」と思わせるような迫力を備えている点が興味深いところです。
これら数々の物語をめぐって、作家で時代考証家でもある綿谷雪は「女として、人間として、妲己のお百には他に比肩し得ないスケールの大きさと重厚さがある」と評しています。

綿谷雪 雑誌『富士』より(1952年)public domain
「妲己のお百」は、夏目漱石の『坊ちゃん』や、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』など、近代文学の中にもその名が登場しています。
さらに歌舞伎や講談、映画の題材としても繰り返し取り上げられ、落語のネタとしても人気を集めてきました。
実在した人物と伝えられる一方で、実名や経歴を裏づける確かな史料は存在していません。
それでもなお、長きにわたり数多くの作品に描かれ続けてきたのは、美貌と才覚を操りながら男たちを渡り歩いた毒婦という妖しい姿が、人々の想像力を惹きつけてきたためかもしれません。
参考:平林たい子『平林たい子毒婦小説集 (講談社文芸文庫)』2006年
講談:妲己のお百~十万坪の亭主殺し
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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