柳生利厳の生い立ち
柳生利厳(やぎゅうとしとし/としよし)は、戦国時代の末期の天正7年(1579年)に大和国は柳生庄において生まれたと伝わっています。
父である厳勝は領主・柳生宗厳(石舟斎)の長男でしたが、戦場で受けた傷から歩行がままならない状態であったと言います。
このため祖父・石舟斎から薫陶を受けて、幼いころより剣術修行に励んだと伝えられています。
石舟斎は、その師である新陰流の創始者・上泉信綱から印可を受けた、新陰流の二世として正当な後継者であった剣術家です。その新陰流の継承を後に孫である利厳に与えることになります。
こうして利厳は新陰流三世となり、さらに尾張徳川家の剣術師範を務めて、尾張柳生と称される新陰流の剣法を今日に至るまで伝えました。
叔父・柳生宗矩と江戸柳生
利厳(としよし)が15歳の年の文禄3年(1594年)、大和柳生庄の柳生家の領地は、豊臣秀吉が行った太閤検地において隠し田が指摘され、その所領を没収されたと伝わっています。このため柳生家は窮乏することとなり、石舟斎の五男であり利厳の叔父にあたる柳生宗矩(むねのり)は、徳川家に仕官する事となります。
これは、文禄3年(1594年)5月に京おいて、石舟斎が徳川家康の前に招かれ、新陰流の秘儀「無刀取り」を披露、その石舟斎の推挙を受けた宗矩が、家康から200石で召し抱えられたと伝わっています。
後に宗矩は新陰流の宗家こそ継承できませんでしたが、第二代将軍徳川秀忠、第三代将軍・家光の兵法指南役となり、その剣は将軍家御流儀の剣法(江戸柳生)とされました。更に宗矩は、寛永13年(1636年)には大名に列され、大和国柳生藩の藩祖となる出世を果たしました。
因みに、宗矩が徳川に召抱えられるきっかけとなった石舟斎の「無刀取り」とは、真剣の相手に素手で立ち向かいながら相手を制する奥義です。
これを脚色し両手で刀を掴んで止める「真剣白刃取り」として流布されたと考えられます。
利厳の肥後行きと新陰流の相伝
利厳は24歳の慶長8年(1603年)、肥後の加藤清正に請われ500石の扶持を以て熊本藩に仕官したと伝わっています。
当初、石舟斎は利厳を案じて渋っていたものの、清正からの再三の要請に負けて送り出しとと言われています。
この際に、『新陰流兵法目録事』と極意を記した和歌を二首授けたとされています。
しかし利厳の出仕はわずか1年足らずで終り、浪人となったとされています。理由は巷説によると藩の同僚と一揆の鎮圧を巡って争いを起こし、その同僚を斬ったためとも言われています。しかし後に加藤家は幕府によって改易となったこともあり、詳細は分かっていません。又、扶持についても3,000石の厚遇だったとする説もあるようです。
この加藤家退出の後、利厳は諸国を旅したとも柳生庄に戻ったとも言われており、正確なことは定かではありません。
そして、翌慶長10年(1605年)、利厳が柳生庄に戻った際に『没慈味手段口伝書』を伝授されたと伝わっています。
石舟斎は利厳に宛てた印可状と共に、新陰流の宝刀〈永則大太刀〉、さらに自らが師である上泉信綱から与えられた印可状も併せて授け、ここに新陰流三世を継承させたと伝わっています。
尾張柳生の誕生
新陰流三世となった利厳は元和元年(1615年)、尾張藩藩主・徳川義直(家康の九男)の宿老・成瀬隼人正から義直の剣術師範役として家康に推挙されます。
家康は利厳を駿府に招いてその剣を直接要請したと伝えられています。
利厳は叔父・宗矩と違って剣術以外のことには関与しない旨を条件として、その了承を得た上で500石を拝して義直の師範となったとされています。このいきさつは、叔父・宗矩は幕府の惣目付などの政事に深く関わっていましたが、利厳は常に兵法第一を旨とし、正統な新陰流の伝承を目指したためとも言われています。
この5年後の元和6年(1620年)には、利厳は義直に新陰流の剣術の印可を授与し、新陰流四世を継承させました。
徳川御三家の藩主たる大名の義直が継承者となったことで、以後も続く揺るぎのない尾張藩「御流儀」剣術となりました。
後に直義は、利厳の次男・厳包に印可を授け、新陰流は相伝されていくことになりました。
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