暗殺者も後悔
佐久間象山(さくましょうざん)は、幕末に江戸において私塾「五月塾」を開いて、ここで勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内などの人物に西洋の兵学や砲術の教えを行った人物です。
象山は幕末にあって、公武合体策と開国による国力の増強を唱えていたため、尊王攘夷派の志士達から敵視されていました。それにも関わらず京に上った際に護衛もつけずに行動していたため、幕末の四大人斬りのひとりとして有名な河上彦斎等らの手にかかって、暗殺されてしまいました。
しかし、暗殺を実行した河上彦斎は、象山の業績・知識を知って激しく後悔し、以後暗殺をすることはなかったと伝えられています。
暗殺した者ですら、その後の行動に影響を与えた象山の生涯を調べてみました。
儒学者としての 佐久間象山
象山は、文化8年(1811年)に信濃松代藩の下級武士・佐久間一学国善の長男として生まれました。
象山は14歳で竹内錫命から詩文を、16歳で鎌原桐山から経書を、続けて町田正喜から和算を学びました。この頃から松代藩藩主の真田幸貫の目にその才が止まったと伝えられています。
こうして23歳の時に藩から江戸への遊学が許された象山は、佐藤一斎に朱子学をび、30歳を前に自ら私塾「象山書院」を開設して、儒学を教えるようになりました。
しかしこの時の象山は、未だ従来からの武士の学問の範疇内にあって、洋学との出会いはこれ以後の事でした。
洋学の習得
象山に転機が訪れたのは天保13年(1842年)で、主君・幸貫が幕府において老中と兼任して海防掛に任ぜられたことがきっかけでした。
象山はその顧問に推されて、アヘン戦争における、清とイギリスなど海外の動向を研究する任に就きました。このことで『海防八策』を記すことになり、これを機会に自ら蘭学への必要性を痛感したとされています。
象山は、弘化元年(1844年)頃からオランダ語や、オランダの自然科学書、医書、兵書などの書物の学習・修得に励んだとされています。
こうして主君・幸貫から藩の洋学研究の担当者に任じられ、象山は江川英龍(えがわひでたつ)の下で西洋の兵学を学ぶことになりました。
しかし、ここで江川は象山を快く思わなかったと伝えられています。
これは旧来からの教育方法である師から弟子への「伝授」・「秘伝」など、知識を囲い込むやり方を行っていた江川に対して、象山の合理的な考え方・自らが学んで修得したことを積極的に開示する姿勢にあった為ともとされています。
後進への教授
象山は習得した知識を元にして西洋砲術の専門家として名を知られるようになると、砲術に留まらず、硝子製造など工業技術の確立にも取り組みました。
象山はこうした実績から洋学における第一人者と目されるようになると、嘉永4年(1851年)に江戸へと移って私塾「五月塾」を開いて冒頭に挙げた人物達・後進への洋学の教育に尽力しました。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した際にも、象山は藩の任として浦賀を訪れて、それに対する報告を幕府老中・阿部正弘に対して「急務十条」として奏上しています。
巷説では象山はこの時、弟子の吉田松陰に渡航を勧めたとされています。
果たして嘉永7年(1854年)、松陰は再び浦賀へと来航したペリーらのアメリカ艦隊へ密航を企て、果たせずに捕えられてしまいました。
象山は、松陰から事前にこの密航計画を聞かされていたことから、松陰に連座して、自身も入獄を余儀なくされました。
しかし処刑された松陰とは異なり、文久2年(1862年)まで松代での蟄居処分を受けることで赦免されました。
佐久間象山 の最期
その後 象山は、元治元年(1864年)に一橋慶喜に招聘を受けて上洛し、慶喜に対して公武合体論と開国論を説きました。
そして同年7月11日、冒頭の通り河上彦斎等の襲撃を受けて、享年54で死亡しました。
象山は海舟などの多数の人材に影響を与えた反面、人物としては弟子達からもあまり芳しい評価をされていません。
例えば海舟や高杉晋作などは、象山を「法螺吹き」と評しており、独学で洋学を修め、当代一の洋学者ともなった象山がその才ゆえか、どこか突飛で傲慢な面を持っていたことを思わせます
しかし留学などを行わずに書物からの習得を中心としながらも、当代きっての洋学の大家となり、大砲の鋳造、硝子の製造を実践した実績は高く評価されるに足るものであったと思われます。
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