江戸時代

松平忠輝【父、徳川家康に生涯を通じて嫌われた六男】

諸説ある嫌われた理由

松平忠輝

※松平忠輝像(複製、上越市立総合博物館蔵)

松平忠輝(まつだいらただてる)は、徳川家康の六男として生まれ安土桃山期から江戸の中期までを生きた大名です。

後半生は改易されて、領地もなにもない不遇な生涯を送った人物でした。

忠輝がこうした扱いとされた理由には諸説があります。

まずは生まれた際の赤子の時分の見た目が醜かったという説があります。これは色黒で目が吊り上がったとても目見麗しいとは程遠い見た目をしていたことで、忠輝を一目見た家康が捨てるように命じたという巷説です。

また一方では、当時嫌われてた双子として忠輝が生まれたという説もあるようです。これは畜生腹と揶揄され、動物の様に一度の出産で複数の子が生まれる事を忌避したものであったとも言われています。

弟の後を継ぐという扱い

忠輝は、天正20年(1592年)に江戸で生まれましたが、母である茶阿局が低い身分だったこともあってか、当時のしきたりであった捨て子の風習に則って家康の重臣であった本多正信に拾わせ、下野栃木3万5,000石の大名だった皆川広照に託されて育てられることになりました。

忠輝は慶長3年(1598年)に2歳年下の弟であった松千代が養子となっていた永沢松平家1万石を、松千代が早世したことで継ぐことになりました。

そして慶長7年(1602年)に元服すると忠輝を名乗りました。

伊達政宗が岳父へ

※五郎八姫像(瑞巌寺宝物館蔵)

その後忠輝は、伊達政宗の長女である五郎八姫(いろはひめ)を正妻として迎え政宗を岳父としました。

五郎八姫は美しく聡明で、父の政宗も「男であれば」と残念がったほどでした。

関ヶ原の合戦後には、下総佐倉5万石を領し、次に信濃川中島で14万石を与えられました。そして慶長15年(1610年)には越後福島45万石へと加増移封され、大身の大名となりました。ここで忠輝は城下町と商工業の開発に努め、更に居城とする高田城の普請を約5ヶ月という異例の速さで完成させています。

ここまでは何とか加増を重ねてきた忠輝ではありましたが、高田城の完成を見た直後に発生した大坂の冬の陣で問題が起こりました。

大阪の陣での行い

このとき忠輝は江戸城の守備を担うことになっていましたが、この役に納得せず幕府の威光を無視し、岳父・政宗に説得されるまで江戸城へ赴きませんでした。

続く慶長20年(1615年)の大阪夏の陣では大和口の総大将として出陣しましたが、近江において兄である秀忠の配下の2騎20名余の者たちが、騎乗のまま忠輝を追い抜こうとしたことに立腹し、これを無礼討ちする行動に出ました。
さらに事後にも一切の謝罪をしなかったと伝えられており、このことがその後の改易に最も影響したものと考えられています。

加えて忠輝はその後の道明寺の戦いに遅参し、戦後に家康・秀忠父子が行った朝廷への戦勝報告に随行を命じられていたにも拘らず、これを仮病で欠席、秀忠の許可なしに領国へ帰国を行うなど、幕府の威信を蔑ろにする行動の数々を繰り返したと伝えられています。

松平忠輝 諏訪で天寿を全う

こうした不行跡のため、忠輝は慶長20年(1615年)8月に家康から以後の対面を禁止する旨を通告されました。

翌元和2年(1616年)4月に家康は亡くなりましたが、その臨終の前に秀忠・義直・頼宣・頼房らは呼び寄せられましたが、先の通告もあり忠輝は呼ばれませんでした。
忠輝は駿府に参じたものの、最期まで家康が面会を拒んだとも伝えれられています。

元和2年(1616年)7月、忠輝はついに改易されて伊勢への流罪を言い渡されると、金剛證寺に預けられました。

※長野県諏訪市の貞松院にある忠輝の墓所

その後、忠輝は元和4年(1618年)に飛騨の金森重頼に預けられ、さらに寛永3年(1626年)には信濃の諏訪頼水に預けられ、その地にて天和3年(1683年)に92歳という天寿を全うし最後まで幕府に許されることはなく世を去りました。

忠輝が改易された理由は他にも説があり、妻の五郎八姫がキリシタンでキリスト教と近い存在だったことや、当時権勢を誇っていた大久保長安と仲がよく警戒されたなど諸説ありますが、家康の実子として生まれながら不遇な生涯を送ったといえます。

 

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「TUTAYA」の名前の由来となった蔦屋重三郎 【吉原から成り上…
  2. もう一つの生麦事件について調べてみた【鎌倉事件】
  3. 催眠術を使う最強剣豪・松山主水 「武蔵も逃げ出した二階堂平法」
  4. 江戸時代の変わった殿様たち 「温水プールを作った、ブリ好きが原因…
  5. 人間の域を超えた知恵者~ 松平信綱の逸話 「将軍・家光、家綱を支…
  6. 「天然痘」予防の普及に迷信と戦った医師・緒方洪庵
  7. 『戦国の名将と江戸の将軍』 伊達政宗と徳川家光の不思議な関係とは…
  8. 上泉義胤 〜「剣聖・上泉信綱の孫で夢想流を生み出した居合の達人」…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

万里の長城は時代と共に変化していった 「春秋、秦、漢、金、明」

中国大陸の誇る世界遺産万里の長城とは、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコ…

ミッドウェイ海戦~こうすれば日本の勝利だった!

大東亜戦争・太平洋戦域の日米開戦の勝敗分岐点「ミッドウェイ海戦」について、なぜ日本は負けてしまったの…

徳川家康を天下に導いた交渉術 「自ら動かず相手を動かす」「話をよく聞き決断後ぶれない」

家康の交渉術について徳川家康の性格を表す川柳は、誰もが知っているだろう。「鳴かぬなら…

玄洋社について調べてみた【大アジア主義を唱えた政治結社の草分け】

政治結社・玄洋社「玄洋社(げんようしゃ)」は、西南戦争後の1881年(明治14年)に結成…

足利尊氏の病と死因 「双極性障害 躁うつ病だった?」

足利尊氏2度の謀反を起こし天下を取ったことから「史上最大の逆賊」とも呼ばれたのが、室町幕…

アーカイブ

PAGE TOP