国書偽造の告発
柳川一件(やながわいっけん)は、江戸初期の第三代将軍・徳川家光の治世において対馬藩による「国書偽造」を告発した大事件でした。
時の対馬藩主であり朝鮮との外交の窓口を担っていた宗義成(そう・よしなり)に対し、同藩の家老・柳川調興(やながわ・しげおき)が日本側と李氏朝鮮側の間でやり取りされていた国書が、実は対馬藩によって偽造されていたことを幕府に訴え出たことによって明るみにでました。
告発を行った柳川調興の動機は、対馬藩から独立して徳川の直臣である旗本の地位を得ようとしたものと伝えられています。
対馬と朝鮮の交易
日本と朝鮮との外交関係は、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵によって大きな亀裂が生じていました。この状況を改善することが秀吉の後の政権を担った徳川幕府にとっても課題となっていました。
このため関ケ原の戦いにおいて石田三成方の西軍に与して徳川氏に弓を引くことになった対馬の宗氏でしたが、朝鮮との関係改善にの力は不可欠として改易を免れ、所領を安堵されていた経緯がありました。
宗氏は14世紀以降から李氏朝鮮との強固な外交関係を構築し、交易において商人に渡航証を発行するなど日本側の唯一の窓口として認められていました。また耕作面積が狭い対馬を領地とした宗氏にとって、朝鮮との交易は藩の主要な収入源となっていました。
李氏朝鮮からの要請
対馬藩の国書偽造は慶長10年(1606年)の李氏朝鮮からの要請が引き金となって始められました。これに先立って朝鮮出兵で約1,400名の捕虜の朝鮮への送還を徳川家康の許可を得た宗氏が行っていました。
この日本側の態度に満足した李氏朝鮮は、朝鮮出兵時に「朝鮮国王の墓を荒らした人物の引き渡し」と「徳川家康から朝鮮国王への国書の提出」の2点を要求しました。
これは当時の外交の習慣から考えるとかなり難易度の高いものでした。何故なら家康側から先に国書を提出するという行為は朝鮮への従属を認める事と同義であったため、徳川幕府がすんなりと受け入れる事は考えにくいことでした。
交易のために国書を偽造
このため李氏朝鮮からの要求に対し、なんとかして交易を再開させたいと考えた対馬藩が行ったのが国書の偽造でした。
始めに対馬藩は1点目の墓荒らしを行った人物と偽って自藩の罪人2人を引き渡し、更に家康の名を用いた偽の国書を李氏朝鮮に提出しました。
受け取った李氏朝鮮ではその国書の真贋について議論はありつつも、自らの2つの要求を日本側が受け入れたことで良しとして、慶長12年(1607年)に国書の受領に対する使節団を派遣し、大御所・徳川家康と第二代将軍・秀忠と謁見しました。
ここで対馬藩は、再度の国書偽造に手を染めました。李氏朝鮮から派遣される使節団が持つ国書の内容は、先に日本側の家康が送った偽の国書に対する返答という体裁のため、これを李氏朝鮮側からの初めての国書という内容に改竄する必要に迫られたためです。
こうして今度は李氏朝鮮から日本へあてた国書の偽造が行われ、将軍・秀忠との会見の当日に本物とのすり替えが実行されました。
対馬藩ぐるみの偽造の継続
こうした国書偽造を行った結果、対馬と李氏朝鮮との間に条約が結ばれて、晴れて交易が復活することになりました。
しかし、これ以降も李氏朝鮮から使節が送られるたびに、辻褄を合わせるために国書の偽造が続けられました。
関与した人物も、藩主・宗義智が宗義成へ、家老・柳川調信が柳川智永か更に柳川調興へ、同じく外交僧も景轍玄蘇(けいてつ・げんそ)から規伯玄方(きはく・げんぽう)へと移っていきましたが、藩ぐるみでの国書の偽造工作は代々継続されました。
幕府の裁定
この件が公となったのは、寛永10年(1633年)に家老・柳川調興が対馬藩のこれまでの国書偽造に纏わる秘事を幕府に密告したためでした。
この密告により寛永12年(1635年)に江戸城の三代将軍・家光の御前で、宗義成と柳川調興の双方の申し開きが、幕府の1,000石以上の旗本と大名の衆目の元に行われました。
その結果として、朝鮮との交易は従来通り対馬藩に預けるべきと判断され、宗義成が無罪、柳川調興が津軽への流罪を宣告されました。こうして幕閣を揺るがした藩ぐるみの国書偽造事件は一応の決着を見ました。
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