栄枯盛衰は世の習いとは言うものの、誰もがアッサリ新主へ乗り換えたわけではなく、旧主への忠義ゆえにギリギリまで抵抗を続けた者も少なからずいました。
今回は土佐国(現:高知県)で旧主への忠義から新主・山内一豊(やまのうち かずとよ)に抵抗した高石左馬助(たかいし さまのすけ)のエピソードを紹介したいと思います。
土佐各地で相次ぐ叛乱
高石左馬助は生年不詳、土佐七雄(土佐の有力七豪族)の一・本山(もとやま)氏に仕えていましたが、主君が長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に降伏するとそれに従い、主君の旧領である長岡郡本山郷(現:高知県長岡郡本山町)を与えられました。
以来、元親・長宗我部盛親(もりちか。元親の四男)と2代にわたって奉公しますが、盛親が慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦で敗れて改易(かいえき。領地没収)、追放処分にされてしまいます。
「おい、今度の領主には山内(一豊)が来るそうだ」
「冗談じゃねぇ。俺たちの大将は長宗我部の殿様と決まっているんだ」
「そうとも。わしらの土佐を、よそ者なんぞに好き勝手されてなるものか!」
「ましてや関ヶ原ではロクな槍働きもなく、口先一つで出世したと言うではないか!」
「舌働きの恩賞とは、わしらの土佐も随分ナメられたものじゃ……断固抗うべし!」
「おう、やらいでか……吠えるばかりの犬輩(いぬばら)め、何するものぞ!」
かくして長宗我部氏の居城であった浦戸城(うらど。現:高知県高知市)の引き渡しを拒否した「浦戸一揆(同年11月~12月5日)」をはじめ、明けて慶長6年(1601年)以降も、土佐の各地で長宗我部旧臣による叛乱が相次ぎます。
「おい、昨日〇×で兵が挙がったと言うに、兄者は加勢せんのか!」
次々と挙兵する仲間たちに加勢はもちろん、何の動きも見せない左馬助に、弟の高石吉之助(きちのすけ)は苛立ちましたが、左馬助にも考えがありました。
交渉決裂……いよいよ挙兵!
「真っ向から敵を倒すばかりが戦さではない。今は敵の力を削いで我らに蓄え、一気に敵を撃ち滅ぼす好機を狙うのだ」
具体的には凶作を理由に年貢を滞納したり、素直に納めるフリをしながら山賊に奪われてしまった風に自作自演したりなど、サボタージュの限りを尽くしました。
「すみません、今年は凶作だったんで年貢を減免してください。ない袖は振れません」
「すみません、輸送中の年貢を山賊に奪われたので減免してください。ない袖は以下同文」
「すみません、年貢を減免……ない袖は以下同文」
のみならず、山内家に臣従・協力する者に対して「どうせ山内家に納めるなら」と年貢を略奪、共に抵抗するよう嫌がらs……もとい説得しました。
左馬助一派の抵抗活動は一定の効果を上げたようで、山内家の収益は激減。堪忍袋の緒が切れた一豊は、家老の山内刑部一照(ぎょうぶ かつあき。永原一照)を左馬助の元へ派遣します。
「我らがそなたらに何をした?大人しく年貢を納めさえすれば、我らもそなたらを悪いようには致さぬゆえ、双方Win-Winであろうに……」
「うるさいのぅ、凶作じゃと言うておろうに。ない袖は振れぬったら振れんのじゃ」
刑部は粘り強く交渉したものの成果は上がらず、左馬助にとってはよい時間稼ぎとなりました……が、ついに山内家も説得を諦め、刑部を総大将とした武力討伐に踏み切ることを決定。
「かくなる上は仕方ねぇ……野郎ども、いよいよ旗揚げだ!山内の連中に、土佐の槍を馳走してやろうぜ!」
「おぅ兄者、やらいでか!」
時は慶長8年(1603年)11月、後世に言う「元山一揆(滝山一揆)」の始まりです。
5日間にわたる死闘の末……
これまで(少なくとも表向きは)沈黙を保っていた高石左馬助が、力を蓄えてついに起ち上がった……のですが、いざ挙兵に参加したのは、郎党や農兵を掻き集めたおよそ30名。
「これは一体どうしたことだ!?」
兵が集まらなかった理由として考えられるのは、(1)既にほとんどの同志勢力が鎮圧されていた。(2)周囲に対する嫌がらせが過ぎて、嫌われていた……要は「時機を逸し、失望されてしまった」と言うところでしょう。
いくら「山内家憎し」とは言っても、土佐の全員が必ずしもそうではなく、むしろ「新主との平和的な関係を壊そうとする左馬助の方が、よほど迷惑」と思う者も少なくなかった筈です。
「仕方あるまい……負けるにしても、せめて土佐侍の意地を見せてやろうぜ!」
領内の滝山(たきやま)に築いた砦に立て籠もって死闘を繰り広げること5日間、ついに左馬助は敗北を悟ります。
「兄者、ここはわしらに任せて敵の囲みを脱出し、捲土重来を期してくれ……!」
「……すまぬ!」
左馬助は霧に紛れて讃岐国(現:香川県)へ逃亡、吉之助ら残った一揆勢力は間もなく刑部の軍門に降ったのでした。
エピローグ
「降伏した者は、見せしめのため皆殺しとせよ!」
たった30名ばかりの賊徒に5日間も手こずらされて、山内一豊は怒り心頭。刑部に全員の処刑を命じますが、刑部はそれを諫めました。
「お気持ちも解りますが、ここはあえて首謀の郷士らを除いて無罪放免となされませ」
これまで一揆の鎮圧に際しては、首謀者はじめ参加した全員を処刑することで見せしめとして来ましたが、それでは遺された者たちの復讐心を煽り立て、田畑を耕す者がいなくなって国土が荒廃してしまいます。
ことさら反骨精神に富んだ土佐人に対しては、鞭よりもむしろ飴の方が効くことを学んだ山内家は統治方針を転換。それが功を奏したようで、今回の本山一揆が長宗我部旧臣による最後の武力叛乱となったのでした。
一方、左馬助はその後消息を絶ってしまいましたが、一説には瀬戸内海を渡って播磨国(現:兵庫県南部)へ落ち延び、忠臣蔵で有名な大石内蔵助(おおいし くらのすけ。良雄)の祖先になった?とも言われています。
かくして長宗我部旧臣の多くは下士(郷士)として山内家(上士)の下風に立たされ、鬱屈した代々の思いが明治維新の原動力として爆発するまで、およそ二世紀半の雌伏を余儀なくされるのでした。
※参考文献:
松岡司『土佐藩家老物語』高知新聞社、2001年11月
小和田哲男 編『山内一豊のすべて』新人物往来社、2005年10月
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