家康の黒歴史
戦国の世を制し、260年間の天下泰平の世を築いた徳川幕府初代将軍・徳川家康には、黒歴史・徳川家のタブーとされている事件がある。
それは、家康38歳の時に起きた「嫡男・信康切腹事件と正室・築山殿殺害事件」だ。
通説では同盟を結んでいた織田信長の命で、「仕方なく二人を殺した」とされているが、これは家康が天下人となり死後に神格化されていく中で「妻殺し・嫡男殺し」が汚名とならないように、後世に書き換えられたとも言われている。
家康の黒歴史・徳川家のタブーとされる「信康切腹事件と築山殿殺害事件」の真相について調べてみた。
通説
家康の正室となる築山殿(瀬名姫)は、元々駿河・遠江の大名・今川義元の義妹の娘である。
二人は家康が今川家の人質であった弘治3年(1557年)に政略結婚したが、3年後には嫡男・信康が生まれ、翌年には娘・亀姫が生まれた。当時二人は仲が良かったという。
桶狭間の戦いで義元が討たれ、家康は今川家家中の混乱の中で念願の岡崎城に入り、尾張の織田信長と清洲同盟を結んで今川家からの独立を果たす。
この時、築山殿の父・関口親永は今川氏真の怒りを買って正室と共に自害している。
妻子を奪還したい家康は氏真の縁者を捕らえ、重臣・石川数正が氏真を説得して人質交換ということになり、築山殿と信康・亀姫は命を助けられ岡崎城に戻った。
しかし、今川家に縁がある築山殿は家康の命により岡崎城に入ることを許されず、夫婦の間に溝が出来た。(家康が築山殿を遠ざけたのには信長への配慮があったとされている)
家康は遠江国を制圧して拠点を浜松城に移し、岡崎城はまだ幼かった信康が城主となって築山殿も共に岡崎城に入った。
この当時、今川氏の力は弱まったとはいえ、背後の武田氏が家康領内を虎視眈々と狙っていた。
そこで家康は信長との同盟を深めるために、信長の娘・徳姫を信康の正室に迎えた。
二人の間には娘が二人誕生したが男子が生まれなかった。そこで築山殿は元武田家の家臣の娘で部屋子をしていた二人を信康の側室にしたが、そのことを徳姫は良く思わなかった。
戦国の世では側室を持つことは当然であり、築山殿としては当たり前のことをしたのだが、徳姫の恨みを買ってしまうのだ。
天正7年(1579年)徳姫は信長に「12か条の手紙」を送ったが、その内容は
「信康の乱暴な振舞い、築山殿が自分と信康の仲を裂こうとしている、築山殿が徳姫に対して意地悪をする、武田家の家臣の娘を信康の側室にした、信康と築山殿が敵である武田家と内通している、築山殿が唐人の医師と密通している」
というものであった。
当然、信長は激怒し、家康に信康と築山殿の処刑を命じた。
信長に逆らうことが出来ない家康は、泣く泣く腹心の家臣に二人の殺害を命じ、同年8月29日に築山殿が殺害され、9月15日には信康が切腹した。
これが今までの通説とされてきた。
様々な疑問
これまでの通説には幾つかの疑問点がある。
まず、なぜ徳姫は築山殿の武田家との内通を知ったのかという点である。築山殿とは別居しているし、よそ者の徳姫が徳川家内でそこまでの諜報活動ができたかは疑問である。
築山殿が女性二人を信康の側室に迎えたことで徳姫が腹を立てたという件も、この時代側室を持つことは普通のことである。
築山殿が唐人医師と密通があったとされているが、これも築山殿を貶める中傷だという説もある。
徳姫が信長に12か条の書状を送ったとされているが、一説では家康の重臣・酒井忠次が信長に会いに行く予定があり、徳姫が忠次に手紙を託して届けさせたという。そのような内容の書状を家康の重臣・忠次が信長にわざわざ届けるというのもおかしく、もし託されたならば信長ではなくまず家康のもとに先に届けるのが筋だと思われる。
また、書状を読んだ信長が激怒して、信長の前で申し開きをした酒井忠次は12のうち10は本当だと認めたという。
重臣・忠次が嫡男や正室のことを貶める内容をあっさりと認めることも不可解である。忠次はその後も徳川家で順調に出世している。
信長ほどの人物が家康に確認もせずに、手紙の内容だけで家康の正室と娘婿とを殺すように命じたことも不可解である。
もし、これが真相であるならば「信長公記」にも書かれていそうなものだが、このことは一言も書かれてはいないのである。
家康と信康 親子の確執か?
信康と徳姫の不仲は事実のようであるが、この事件の真相は家康と信康親子の確執、または信康が相当な重罪を犯したという可能性が考えられる。
理由としては、信康が乱暴者で築山殿のいじめが本当だったとしても、死罪は処分として重すぎるからである。信康は嫡男であり築山殿は正室である。出家や追放などやり方はいくらでもあったはずで、死罪というのは相当な何かがあったはずである。
家康が浜松城を居城にしたことで武功を挙げるのは前線の浜松城の家臣たちとなり、岡崎城の信康の家臣たちは殿(しんがり)や後方支援など余り武功を挙げるチャンスを得られなかった。
そのことで家臣団が浜松派と岡崎派で対立した。家臣団の対立の最中、家康が娘・亀姫を信玄没後の武田方の武将・奥平信昌のもとに嫁がせた。その後、奥平信昌は徳川側につくことになるが、このことに信康は強硬に反対して家康と意見が合わなかったという。
信康を担いだ岡崎派による「家康追放」計画があり、このクーデターに築山殿も関わっていたという説もある。
そこで家康は養父でもある信長のもとに重臣・忠次を送って、信康暗殺の許可を取ったというのだ。
徳姫からの書状は虚構であり、家康の方から「信康が武田と内通して謀反を起こした、あなたの娘婿ですが斬ってもよろしいでしょうか」とお伺いを立てた。
実際に信長は「好きにせよ」と返答しただけで、築山殿については特に何も言ってはいないという。
その後、家康は信康を大浜城に移し、岡崎の信康家臣団に起請文を書かせて信康と分断した。
信康は大浜城から堀江城に移され、天正7年(1577年)8月10日には二俣城に幽閉されてしまう。
家康の重い判断を知った築山殿は岡崎から東海道を東へと進み、浜松城の家康のもとに信康の助命嘆願に向かう。その途中の8月29日、家康の家臣である野中重政・岡本時仲・石川義房によって佐鳴湖の湖岸で築山殿は殺害された、享年39であった。
同年9月15日、信康は幽閉先の二俣城で服部半蔵の介錯で切腹、享年21であった。
おわりに
戦国の世を終わらせた家康は死後「東照大権現」と神格化された。
神格化された家康の半生の中で嫡男・信康の暗殺事件は徳川家の黒歴史であるだろう。
そこで幕府は築山殿を悪女とし、ありもしない徳姫の12か条の書状をでっち上げ、信長が激怒して「信康と築山殿を殺せ」と家康に迫ったと改ざんしたということも十分考えられる。
神君・家康公にとって「信康切腹事件と築山殿殺害事件」は徳川家の黒歴史・最大のタブーとされた悲しい事件であった。
何処までが元になる資料からの情報であり、何処からが憶測や考察なのかきちんとわかるように書いて頂きたいと思う。又、憶測や考察に対しては断定的な表現は相応しく無いと思う。
確かにどの資料からのは書いて無いが歴史好きなら
分かって当然のこと、憶測のようにわざと面白く
書いていると思うけどな
rapportsさんは今年同じテーマでまた投稿していますよ!