f 石川数正とは ~家康から秀吉に鞍替えした武将 - 草の実堂

安土桃山時代

石川数正とは ~家康から秀吉に鞍替えした武将

家康の独立を補佐

石川数正

※『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)

石川数正 (いしかわ かずまさ)は、徳川家康の家臣から豊臣秀吉の家臣へと鞍替えしたという、非常に稀有な経歴を持った武将です(その逆の武将は余多存在します)

数正は、天文2年(1533年)に石川康正の嫡男として三河で生れたとされています。

家康は、天文11年(1543年)の生まれですので、数正が10歳ほど年長でしたが、1549年に家康の父・松平広忠が死去、家康が今川義元の人質として駿府に赴いた際から、供のひとりとして同行して仕えたとされています。

永禄3年(1560年)に今川義元が織田信長を攻めた際には、これに家康と共に数正も加わりました。

結果、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれたことで、家康は晴れて今川からの独立を果たすことになりました。

織田・今川との折衝

永禄4年(1561年)、家康と信長との間で石ヶ瀬川の戦いが起こると、数正は先鋒を務めました。

しかしこの翌年、永禄5年(1562年)家康が信長との「清洲同盟」を締結した際には、今度は織田家との折衝を重ねて、その成立に大きく貢献したとされています。

この同盟の締結時、未だ駿府に今川の人質として残されていた家康の正室・築山殿と嫡男・信康を救うため、数正は今川の縁者との人質交換を行うことで今川側と合意し、無事二人を戻す交渉を成立させました。この縁からか、信康が元服を迎えた際には、その後見人となっており、家康の信任が厚かったことが窺われます。

この後も家康に従って、元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、各地を転戦して武功を挙げたとされています。更に天正7年(1579年)、信長から武田への内通を疑われた信康が切腹させられると、替わって岡崎城代も務めました。

徳川からの出奔

天正10年(1582年)に信長が本能寺で討たれ、羽柴秀吉が替わって台頭してくると、数正は家康の命を受けて秀吉との折衝を行うようになったとされています。

天正12年(1584年)に発生した秀吉との小牧・長久手の戦いにも従軍し、一説にはこの戦いの中で、家康に秀吉との和睦を提案したと言われています。
その後、数正は天正13年(1585年)11月に家康の下から出奔、秀吉の傘下に馳せ参じたとされています。この出奔の正確な理由は不明で、諸説が唱えられています。どちらにしても数正は、徳川の内情に精通していた譜代の家臣であったため、徳川にとってその出奔は大きな衝撃をもって迎られました。

徳川では機密が漏えいした場合に備えて、三河以来の軍の在り方を、かつての敵であった武田の流儀に改めたとされています。
一方、数正は秀吉から河内に8万石の領地を拝し、天正18年(1590年)の小田原征伐後に信濃国の松本に加増移封されました。

出奔理由の諸説

前述の通り、数正の出奔理由は不明ですが、以下のような推察がなされています。

・秀吉と折衝する内に、その人物に魅せられて自ら家臣となったとする説
・秀吉に莫大な恩賞を与えられ調略されたとする説
・秀吉に対し、強硬意見を主張した本多忠勝らと対立、徳川家での立場を損なったためという説
・信康の切腹事件を通じて、家康との間に齟齬が生じたとする説
・信康の切腹後、数正の岡崎衆(信康派)から酒井忠次の浜松衆(家康派)に実権が移ったためという説
・家康と示し合わせて、秀吉の傘下に加わることで間者となったという説

因みに山田芳裕氏の人気漫画の「へうげもの」では質素倹約を旨とし、風流を解さない家康に愛想をつかして出奔したとする様子が描かれていました。

国宝・松本城を整備

石川数正

※松本城 wikiより

天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐の結果、北条氏の旧領・関東へ家康が移封され、これに伴い数正は松本城(当時は深志城)へ入城、信州松本の地を治めました。

その際、現在も国宝として残る松本城の天守閣を始め、城郭の整備を息子・康長と共に進めました。
数正は、文禄2年(1593年)に享年61歳で死去したものとされています。但しこの没年に異説があって、これより前に死去したとも伝わっており、こちらも正確なことは不明となっています。

数正の死後、家督は長男の康長が継ぎましたが、康長は慶長5年(1600年)の家康の会津征伐に従軍して東軍に与しました。関ヶ原の本戦には参加できませんでしたが、東軍に与したことで、所領は安堵となりました。

しかし康長は、慶長18年(1613年)徳川を揺るがした大久保長安の事件に連座して改易され、豊後佐伯に流罪に処され大名としての石川氏は終焉を迎えました。

 

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