安土桃山時代

織田信長の遺体がないって言われているけど、ありそうな場所はどこ?

織田信長の遺体

今回は、本能寺の変にて死亡した織田信長の遺体の逸話について触れていきたい。

時代検証が進むことで新たに明らかになった事実もあり、様々な説が浮かび上がっている。

現在は、どの説が有力なのだろうか。

織田信長の遺体についての諸説

織田信長の遺体

画像 : 織田信長 イメージ

信長が死亡した本能寺の変は歴史の大きな転換期であり、歴史にあまり興味が無い方でも知っているだろう。

ただし「信長が最後どうなったのか?遺体は発見されたのか?」についてははっきりせず、諸説あるというのが現状である。

史料における代表的な説は、以下となっている。

ルイス・フロイスの『日本史』:毛髪一本残らず本能寺で完全に燃え尽きた。
尾瀬甫庵の『信長記』や『東大記』:遺体が完全に燃え尽きるはずはないと明智光秀が探ったが、結局見つからなかった。
俗書の『林鐘談』:瓜の紋の付いた小袖の焼け残りや、それを着た遺体があったことから、それを信長の遺体とした。

このように諸説あるが、明確に見つかったという記述は存在せず、あやふやなままとなっている。

それ故に「歴史の謎」となり、筆者を含めて定期的に探る人が出てきたのである。
そして近年、とある史料が注目されている。

それは阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』である。

この『信長公阿弥陀寺由緒之記録』には、「信長の遺体がどうなったか、遺骨はどうなったか」が明確に記載してあったのだ。

阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』について

織田信長の遺体

画像 : 阿弥陀寺 (京都市上京区) public domain

それでは阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』を覗いてみる。

『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は『改定史籍集覧』に収録されており、その中には明確に清玉上人が信長の遺骨を運び出したいきさつが記載してあったのだ。

具体的にその流れを箇条書きにしてまとめると、以下のようになる。

① 本能寺の変に気がついた清玉上人が、20人ほどの供を連れて慌てて現場に向かう。
② 現地に着くと、数人の武士が墓地の後ろの藪で信長の遺体を燃やそうとしていた。
③ その武士が顔見知りの近習だったので訪ねると、信長の遺言で「遺体を渡すな」と言われたので燃やそうとしていると答えた。
④ 信長とは長年懇意にしていたし、そもそも火葬をするのは坊主の役目なので「この場で自分が燃やし遺骨は寺に持ち込む」と提案する。
⑤ 近習たちはその提案を受け入れ、敵中に切り込んでいった。
⑥ 清玉上人は火葬を終えた後、遺骨を持って本能寺の僧にまぎれて脱出に成功する。
⑦ すでに信長の遺体は残っておらず、明智光秀は見つけられない状態になる。
⑧ その後、信長の息子・信忠も討ち死にしたと聞いたので、光秀に申し出て信忠と家臣たちの遺体を引き取る。
⑨ 信長や信忠の墓、そして森蘭丸や近習たちの墓を建てて供養する。

これまでの説と比べると、非常に現実味があり納得できる。

また、清玉上人は正親町天皇の勅願僧となるほどの高僧だったので、明智光秀も清玉上人のお願いは断れなかったとされており、光秀とのくだりも納得できる。

信長の遺体は、清玉上人が本能寺で燃やした説が有力か

織田信長の遺体

画像 : 阿弥陀寺 (京都市上京区)の織田信長廟 wiki c

『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は、阿弥陀寺の僧たちが書き残した記録書だが、実は阿弥陀寺は1675年に一度火災で消失している。
その後1731年に、老人たちの記憶の元に再度作り直されたとされている。

個人的には僧侶は間違ったことや創作などは書かない印象があるし、老人たちの記憶も細かな部分はさておき、大筋は間違えないのではないだろうか。
この「清玉上人が本能寺で燃やした説」は、有力に思える。

しかも、この京都市上京区にある阿弥陀寺は「織田信長公本廟」となっており、寺の門前に信長公本廟と碑が立っているのが特徴となっている。(1917年に宮内庁が大正期の調査で、この阿弥陀寺にある信長公墓が廟所であると結論づけたことで、公認された信長公本廟となった)

信長の墓は和歌山県にある高野山など各所にあり、全国で15箇所以上あるとされているが、この阿弥陀寺こそが本尊と言えるだろう。

ちなみに、この阿弥陀寺は豊臣秀吉の京都改造によって移転したお寺であり、現在の住所はその移転後の住所となる。
そして、移転することになった経緯もなかなかにすさまじく、これは清玉上人が秀吉に徹底的に抵抗した結果だという。

清玉上人の元に遺骨や墓があったことを秀吉も当然知っていたため、秀吉が自身の手で大々的に供養するためにそれらを要求したのだが、清玉上人は拒否し続けた。

清玉上人にとって秀吉は「信長に恩義があるはずなのに天下を盗もうとする人でなしに見えた」と、『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に記載があり、最初から遺骨や墓を渡す気持ちはなかったようである。

その結果、秀吉は大徳寺で遺骨が無い状態での葬儀を行うことになり、それに気を悪くした秀吉は清玉上人を弾圧して強制的に移転、さらには信長の墓所と称するのもNGとしたのである。

そしてこの状態が解除されたのが1917年の信長公本廟公認であり、300年以上経ってようやく信長の墓所を公然と名乗れる立場になったのである。

参考 : 日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで

 

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