小林一茶は、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸の三大俳人の1人である。
庶民に親しみのある優しい表現で、自身の目に映った人・小動物・小さいものを自身に置き換えて表現し、「一茶調」と呼ばれる今までの俳句とは違う独自の作風を確立した。
「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」
などの句が知られている。
そんな人間らしい俳人だった小林一茶は、どのような生涯を送ったのだろうか。
農民の子から俳人へ
小林一茶は、1763年に長野県上水内郡信濃町で比較的裕福な農家の長男として誕生した。
3歳で母を亡くし8歳の時に父・弥五兵衛が後妻となるはつと再婚する。その後、父と継母・はつの間に義弟の仙六が生まれる。
はつは一茶に仙六の面倒を見させ、仙六がぐずり出したりするとお守りをサボったとして一茶を杖で殴った。一茶の身体にはあちこちにあざがあったという。父親は一茶とはつの関係が悪いとこを気にして、一茶が15歳の時に江戸へ奉公に出した。
それからの一茶の消息は10年間不明であるが、25歳の時に葛飾派の重鎮・二六庵竹阿(にろくあんちくあ)の弟子となり俳人となった。その後、東北や西方に門人が多かった二六庵竹阿の名を頼りに、関西、四国、九州を巡り旅をする。
遊女通い
地方から地方への旅の中で一茶の生活はかなり困窮していった。そんな状況でも一茶は多くの女性と一夜を共にした。
「木がらしや 二十四文の 遊女小屋」
この句は木枯らし吹く寒空の中で、粗末な小屋から最下層の遊女達が客を誘う光景を表したものだ。24文は現在価格で600円ほどであり当時の蕎麦一杯分ほどの価格である。蕎麦一杯の値段で身体を売る、遊女達の過酷な生活を表した句となっている。
一茶を相手にしたのは、道端の客を引く遊女の一種「夜鷹」が主であった。
夜鷹とは仮小屋で寝むしろを敷いて売春した最下層の遊女たちの事である。もぐりの遊女で取り締まりの対象にもなっていた。客も下級労働者が多く衛生環境も劣悪で、梅毒などの悪性の病気持ちも多かった。
「さらぬだに 月に立待 惣嫁哉(たちまつそうかかな)」
この句は一茶が路上で客引きをする夜鷹に親しみを込めて、美しく詠い上げたものだ。
この「惣嫁」とは「哀れだが美しい」という意味合いがあり、夜の静けさの中で可憐で不憫な遊女が月の中で立っている様子を表している。
自分と同じく過酷な境遇に生きる遊女の心にも寄り添っていたのだ。
遺産相続問題
39歳の時に父が亡くなると、相続をめぐって継母たちを相手に13年にも及び争う事になる。
一茶が奉公に出た後、義弟の仙六は昼夜を徹して働き、小林家は大幅に財産が増えて有力な農民となっていた。当然継母たちは自分たちの手柄だと自負していた。
父は農作業中に倒れ、病状が悪化していくと死期を悟って一茶と仙六を呼び、財産を均等に分けるよう伝えた。これに継母たちは納得出来ず、一茶も根なし草のような俳諧生活を送っていたため、相続問題は切実だった。
初の結婚
52歳の時、13年続いた相続問題は一茶が屋敷半分などをもらうという事でなんとか解決し、故郷に定住するようになる。
この頃、一茶は俳諧師として全国的にその名が有名となり、多くの門人を抱えた俳諧師匠となる。
そして一茶は52歳にして初めて結婚する事になる。
相手はお菊と言い、28歳であった。
妻との営み日記
一茶は、48歳から56歳までの9年間にわたる句日記「七番日記」を著している。
これはその日の天気や出来事が記された生活の記録であるが、それにはなんと妻の月経や性交の回数も記されているのである。
例えば、
8月8日「夜五交合」(夜5回性交した)
12日「夜三交」(夜3回性交した)
16日〜20日は毎日「三交」(3回性交した)
21日「隣旦飯四交」(隣家の仏壇にお参りし、朝飯を馳走になった後で性交4回)
13日の間に27回性交している。
晩年にして今までの永すぎる独身生活を挽回するかのように、毎晩新妻の身体を求め続けており、相当な性豪であった事が分かる。
しかしその後、悲劇が続くこととなる。
4人の子宝に恵まれるも、皆2歳になる前に亡くなり、妻も結婚9年目にして亡くなってしまう。
一茶は若い時から遊女と関係を持っていた。特に夜鷹とちぎった男たちはもれなく梅毒に感染したという。家族の死因は一茶からうつされた梅毒の可能性が高いとされ、さらに妻は農作業、育児の過労、一茶の性豪ぶりにより衰弱し、亡くなったという。
さらに一茶自身も以前に脳卒中を起こしており、歩行障害、言語障害を患っていた。
再婚と破綻、その後
一茶は62歳の時に、親戚の紹介で2人目の妻・雪(38歳)と再婚する。
介護が必要になっていた一茶に雪は献身的だったが、その衰えない性豪ぶりに疲れ、2ヶ月足らずで破局する。
さらに64歳で再再婚し、子連れのやを(32歳)という女性を3人目の妻として迎えた。
その後、やをは一茶の子を妊娠するが、地域一帯の大火事が起きて実家が全焼してしまうという悲劇が起きる。
その後、一茶は土蔵で生活を送っていたが、65歳でこの世を去った。一茶の死は急死に近く、辞世は伝わっていない。
一茶は2万以上の作品を残し、明治時代に入ってから正岡子規が一茶の素朴な作品に注目した事で大きな脚光を浴びる。
悲劇ばかりの人生だったが、人々の心の中に残る句を沢山生み出したのは事実である。
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