多いときは3,000人もの女中が暮らしていたという大奥。
大奥というと、豪華絢爛な衣装に身を包んだ御台所や女中たちが集う、きらびやかな女の園というイメージを抱く人も少なくないでしょう。
しかし、女性たちの愛憎渦巻く場所のせいか「怪異」としか言いようのない出来事も伝わっています。
今回は、江戸文化の研究家・三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)が著した『御殿女中』に収められた、いくつかの怪異をご紹介しましょう。
「江戸学」の祖とも呼ばれる三田村鳶魚とは
三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)は、1870年(明治2〜3年)、武蔵国八王子(現在の東京都八王子市)に生まれました。
日清戦争での従軍記者、報知新聞記者などを経て、江戸風俗や文化を研究するようになったそうです。
鳶魚は、江戸時代の「生活・文化・趣向・職業・言いまわし・事件・粋な遊び・犯罪」など、多岐に渡るジャンルで話を集めて研究著述を発表し、のちに「江戸学の祖」と呼ばれるようになりました。
しかし、当時は話の出典を示さなかったため、歴史学会ではあまり評価されなかったといいます。その後、膨大な量の著作を発表し、しだいに学会も認めざるを得なくなりました。
『御殿女中』は、江戸末期に大奥に御中臈として暮らしていた女性の聞書(記録)や、そのほかの大奥関係者の見聞録などをもとに大奥の実態をまとめた「鳶魚の労作」といわれています。
そのすべてが実際に起こったことなのか、伝聞や噂話なのかは定かではありませんが、『御殿女中』の中には、ぞっとする怪異な事件も記述されています。
不気味な声とともに空から落ちてきた女中の遺体
時は、文政年間(1818〜1831)の5月頃。
水汲み・掃除などの重労働を担う最下級の女中・御末(おすえ)という役職の一人「あらし」が、忽然と姿を消しました。
「日が暮れても姿が見えないので、おかしい」と、ほかの御末たちがあらしを探しましたが見つかりません。
翌朝になっても見つからないため、御末たちはその旨を上役に伝えます。
そして、男性役人らも一緒になって女中部屋・天井・縁の下・井戸など、ありとあらゆる場所を捜索し、大奥の出入り口にも見張りを置いて閉鎖までしたのです。
あらしが行方不明になって3日目の真夜中のこと。
大奥の天守台の下では、10人ほどの人々が見張りをしていました。
すると突然、不気味なしわがれ声で「あらしはここに、ここに」という声が上から響き、真っ逆さまに人が落ちてきたのです。
それは行方不明になっていた、あらしの遺体でした。
その遺体は、まるで魔物に襲われたかのように全身鋭い爪で掻きむしられ、血まみれの無惨な状態だったのです。
居合わせた者たちは全員恐怖で総毛だち、身動きできませんでした。
あらしは生前に、しばしば「天守台に登ってみたい」と口にしていました。しかし、天守台は江戸城でも神聖な場所であり、最下級の女中が登って良い場所ではありませんでした。
大奥の人々の間では、
「あらしは罰当たりな発言で魔物に目を付けられ、天守台に誘い込まれて殺された」
「あらしはこっそりと天守台に登ったが、天守台の鬼に見付かり殺された」
といった噂が広まったそうです。
密閉された駕籠の中に血まみれの遺体が
同じく、文政年間(1818〜1831)の頃。
大奥に関する全ての文書を担当する御右筆(おゆうひつ)という役職の「おりう」という女中がいました。
その、おりうに仕える部屋付きの女中が、ある朝、姿を消してしまいます。日が暮れるまで皆で探しても見付からず、大奥を管理する役人に報告をしました。
役人や部下の者が3日間探しますが、一向に女中は見つかりません。
そこで4日目になって、乗物部屋に保管している上級女中たちの乗る駕籠を、ひとつずつ取り出して調べることになったのです。
高価な駕籠は、劣化しないように油を染み込ませた大きな紙に包まれ、さらに頑丈な外箱の中に入れられて保管されていたので、大変な作業だったそうです。
1つ1つ、中を改める確認作業が進み、中年寄・藤島の立派な駕籠の番になりました。
包みをほどき扉をあけたところ、全身血まみれで、なぜか秘所をあらわにした女中の遺体が横たわっていたのです。
しかし乗物部屋の入り口には、常に頑丈な鍵が付けられていました。
いったいどうやって女中が乗物部屋に入れたのか、なぜ駕籠の中で絶命していたのか、誰が遺体を入れた駕籠を紙で包み外箱に入れたのか……
この人間の仕業とは思えない大惨事に、「大奥にいる魔物に殺された」という怪異話が伝わったのです。
「開かずの間」と黒紋付の老婆の幽霊
同じく、三田村鳶魚の『御殿女中』には、大奥にあった「開かずの間」に関わる怪談『宇治の間の怪』も収められています。
大奥には、襖に宇治の茶摘みの様子が描かれている「宇治の間」がありました。
実は、この宇治の間で五代将軍・徳川綱吉が、正室の鷹司信子(たかつかさのぶこ)に殺害されたというのです。
もともと二人の関係は、あまり良くなかったと言われています。
この怪談では、綱吉が側近である柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)の子を養子にしようとしたことや、吉保の側室である染子が、もともと綱吉の愛妾で、その子が「綱吉の子」という噂もあったため、信子の憎悪がさらに深まったとされています。
吉保らが権力を握ることを恐れた信子は、綱吉に思いとどまるように説得しますが拒絶されてしまいます。
腹を立てた信子は、綱吉を宇治の間にて懐剣で殺害し、その後自害しました。こうして「宇治の間」は不吉とされ、開かずの間になったとされています。
しかし史実では、綱吉は宝永6年(1709)に成人麻疹により亡くなり、そのあとを追うように信子も亡くなっています。それにも関わらず、なぜこのような怪談が大奥に代々伝わったのかは定かではありません。
ところが、この宇治の間では、12代将軍徳川家慶(いえよし)の頃にも、不思議な怪談があるのです。
あるとき、宇治の間の前を通りかかった家慶は、黒紋付姿の老女を見かけます。
お付きの者に「あれは何者だ?」と尋ねるも、老女は忽然と姿を消していました。
その後まもなく、家慶は暑気あたり(熱中症による心不全)で亡くなってしまいます。
すると「あの黒紋付姿の老女は、信子が綱吉を殺害したときに手伝った女中に違いない」といった噂がたち、「宇治の間に黒紋付の老女の幽霊が出ると不幸が起こる」という話が伝わったそうです。
鳶魚が話を聞いた元奥女中は、子どもの頃から大奥にいたそうで、以下のように語ったといいます。
「綱吉公が殺されたという話が広がってから、宇治の間は誰も使わず物置部屋だった。なのに、なぜか建物の立て直しのたびに、宇治の間も綺麗に立て直されたのが不思議だった」
「宇治の間は、薄気味悪くてずっと怖かった」
終わりに
三田村鳶魚の『御殿女中』に収められた話は、「見聞に基づいた記録」とされていますが、映像や音声のない時代ですので、どこまでが真実で、どこまでが噂かは分かりません。
とはいえ、300年近く続いた大奥では、このような怪異が日常だったようです。
現代のように明かりが多くない蝋燭だけの大奥では、夜が深まると、暗い廊下や人気のない部屋に霊や魑魅魍魎が潜んでいる、と感じられたとしても不思議ではありません。
そうした不気味な雰囲気が、数多くの怪異譚を生んだのかもしれません。
参考:三田村 鳶魚「御殿女中」(1930年)
文 / 桃配伝子
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