江戸時代

「集団リンチ、暗殺、糞便食わせ、畳一畳に18人」 地獄すぎる小伝馬町の牢屋敷生活

小伝馬町の牢屋敷とは

画像 : 大安楽寺内の伝馬町牢屋敷処刑場跡

小伝馬町の牢屋敷は、現在の東京都中央区立十思公園周辺一帯にあった牢屋敷で2618坪の広さがあり、未決囚や刑執行までの罪人を拘留していた施設である。

江戸時代の刑法では懲役や禁固といった処罰が原則として無かったため、牢屋敷は刑務所よりも拘置所に近い施設であった。

常盤橋外の牢屋敷が慶長年間に小伝馬町に移され、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。

牢屋敷の周囲は約3メートル程の練塀と堀に囲まれており、脱獄出来ない構造となっていた。

牢の構成

牢屋敷は町奉行の管轄で、取り仕切っていたのは石出帯刀(たてわき)である。石出帯刀は牢屋奉行が代々世襲する名前であり旗本の石出家が役職に就いていた。

この配下には牢屋同心や様々な雑務をこなす牢屋下男がおり囚人達の監視をした。牢屋敷の牢は囚人の身分により入る場所が分かれていた。

イメージ画像 : 小伝馬町牢屋敷展示館

獄舎の中央部に監視施設である当番所があり、これを挟むように東西に分かれていた。東西の牢は外側に向かい、口揚屋・奥揚屋・大牢・二間牢の順に配列されていた。口揚屋と奥揚屋の部分を総じて揚屋ともいう。さらに揚座敷百姓牢が離れてそれぞれ設けられていた。

揚座敷は、将軍に謁見出来る御目見以上の武士・身分の高い神官や僧侶などを収容していた。比較的環境も良く、付き人の給仕を受けることが出来た。

揚屋は、御目見以下の武士・医師などが収容され、東口揚屋は遠島が決定した者、西口揚屋には揚座敷に収容する者を除き、身分関係無く女囚を収容した。

大牢は、一般庶民を収容した雑居房で広さは30畳程であるが、収容する人数に制限が無く政情が不安定な時などは鮨詰め状態となった。

二間牢は、戸籍の無い無宿者が収容された雑居房で広さは24畳程で、荒くれ者が多く最も治安が悪い場所であった。

百姓牢は、百姓が大牢・二間牢などの牢慣れした囚人からのいじめや悪影響を受けないようにするために場所を離され、揚座敷の先に設けられた。

また、歴史上の有名人物では東奥揚屋に橋本左内、西奥揚屋に吉田松陰が収容されており、幕末には牢屋敷に3〜400人程の囚人が収容されていたという。

恐怖の入牢式

大牢・二間牢を例にあげると、牢屋内は囚人による自治制となっており、囚人達による牢内役人が仕切っていた。

これは牢屋奉行も公認で、牢名主を筆頭に下には数人の部下がおり、例えば病人を介護する添役などそれぞれの役割が与えられていた。

牢内役人は自主的に牢の掟を定め、牢内を管理していた。新入りが入牢する際にはまず幕府の役人による持ち物検査があり、金銭・刃物・火道具などの禁止の物が無いか調べられる。着物を脱がされ口や髪の中まで調べられ、もし見つかれば没収される。

検査が終わればいよいよ雑居房入りとなり、牢名主に促され中に入ると、娑婆ではどのような罪を犯したのかと問われ、そして牢内の掟を厳しく教え込まれる。

その後「命の蔓 : いのちのつる」を要求される。

この「命の蔓」とは賄賂のことで、新入りは帯などに隠して持ち込んでお金を渡すのである。その額が高い程に牢内で優遇されるのだが、もし一文無しだと「ここをどこだと思っているのか」などと脅され、縄で縛り上げられて激しい暴行やリンチを受けることになる。

その後は熱病人のいる場所に放り込まれ、中にはそのまま感染して死亡する者もいたと言う。

牢屋内生活

大牢・二間牢は不衛生な環境にあり、皮膚病が蔓延していた。

牢内の畳は牢内役人に占拠され、牢名主は見張畳と称した10枚も重ねた畳の上に座り、その下の役員は3〜4人で畳1枚を使用し、平の囚人では少なくとも6人で1枚を使用し、時には1畳を18人で使用したという。

イメージ画像

そのため平の囚人は夜もほとんど眠れない状態の上、日中居眠りをすると叩かれた。また牢内は一切火の気が無いため、冬場は寒さで病人が続出し死亡者も多かった。

夜になると牢名主に目を付けられた囚人がリンチされ、また牢内が囚人達で鮨詰め状態になってくると牢内役人達による暗殺・人減らしが行われた。

これは「作造り」と呼ばれた。

対象者は、命の蔓が無かった者・外部からの差し入れが少ない者や、中にはいびきが原因という者もおり、これらの者達は板で叩かれた後に陰嚢蹴り(いわゆる金蹴り)で殺された。

また岡っ引きなどの警察組織の協力者が入牢すると、器に山盛りの糞便を食べさせられて「御馳走」と呼ばれた。牢内役人の判断でおかわりもあったとされる。

また点呼中に岡っ引きの腹を叩いたり陰嚢蹴りで殺すこともあった。牢内はいつ殺されるか分からない環境下で年間の獄死者は1000人以上いたとされる。

殺人はもちろん御法度であるが、医師には「病死」と届出て賄賂を渡して口封じしていた。

牢名主の判断により「仕置き」は許されていた。1日2回の食事や水の配給は牢内役人に管理されていた。娑婆からの差し入れもあったが牢内役人に取り上げられ当人にほぼ渡らなかった。

また牢内役人には飲酒の特権などもあった。牢内では博打は禁止だったが自作のサイコロで沢山の囚人が興じていたとされ、そのための資金も外部から密かに入ってきていた。

同心達もそれを知りながら賄賂欲しさに黙認することが多かった。

また入浴もあったが、清潔を保てる程に十分では無かった。

明暦の大火と切り放ち

江戸の町は火事が多く牢屋敷に火が迫ることもあり、このような時には一時的に囚人達を解放する「切り放ち」が行われた。

画像 : 明暦の大火

きっかけとなったのは明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火であった。江戸の町の半分以上が消失し、犠牲者は10万人以上とされる最大級の大火災であった。

この時、牢屋敷の囚人達が焼死する危険があり、当時の石出帯刀であった吉深は「囚人達がこのまま焼死するのはあまりにむごい」と牢の門を開け放ち、囚人達を外へ出した。

牢屋奉行には囚人解放の決定権は無かったため処罰されることは覚悟の上であった。吉深は囚人達に「火が収まったら逃げることなく、必ず浅草新寺町の善慶寺に戻るように」と条件を付けて逃した。

囚人達は吉深に感謝し涙を流したとされ、命が助かった囚人達は鎮火後に約束通り善慶寺に集まったと伝えられている。

吉深は囚人達の義理堅さを評価して老中に減刑を嘆願し、そして幕府は囚人達の減刑を実行したのだった。

その後「切り放ち」は正式に制度化され、現代の刑法にも引き継がれている。

小伝馬町の牢屋敷は、あり得ない程悲惨な環境であり、まさに「地獄の沙汰も金次第」という言葉通りの場所であった。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 1月 23日 11:00pm

    岡っ引きも殺されるとは…

    0
    0
  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 7月 10日 10:50am

    今の刑務所も、これくらいにしたら犯罪抑止になるのでは?

    1
    0
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