過酷な日々に耐えかねた遊女が、自由を勝ち取るために足抜けを試みて成功した例は、明確な史料はないもののほんのわずかだったそうです。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第12回「俄(にわか)なる『明月余情』」では、吉原で行われた「俄(にわか)祭り」が登場し、壮大なスケールの映像が話題となりました。

画像:俄祭りでよく踊られる芸者と獅子舞 歌川国貞「俄」public domain
撮影には100人以上の出演者が参加したという「俄祭り」の場面では、踊り手たちの生き生きとした動きや、それを楽しむ群衆の熱気が画面いっぱいに広がり、華やかで賑やかな雰囲気が印象的でした。
しかしその一方で、人混みに紛れ、花笠で顔を隠しながら、手を取り合って静かに吉原の大門を抜け出していく男女の後ろ姿が、観る者の心に残るシーンとなりました。
この男女とは、松葉屋の遊女・うつせみ(小野花梨)と、浪人・新之助(井之脇海)です。
二人は約二年前、ちょうど吉原で夏の恒例行事「玉菊燈籠」が催されていた時期に、一度足抜けを試みましたが失敗に終わり、うつせみは厳しい折檻を受け、新之助とも引き離されてしまっていたのです。
そして、俄祭りで二人は再会します。
うつせみと同じ松葉屋に所属する花魁・松の井(久保田紗友)が、「祭りに神隠しはつきものでござんす。お幸せに」と背中を押し、二人は再び吉原からの脱走を決行する‥‥という展開でした。
視聴者の間では、「本当に無事に逃げ切れるのか?」「逃げた後の生活費はどうするのか」といった不安の声があがる一方で、「どうかこの二人には幸せになってほしい」と願うコメントもSNSに数多く見られました。
実際には、「好きな間夫(まぶ)と一緒になりたい」と足抜けを試みた遊女の多くは、厳しい結末を迎えていたとされています。
遊女の足抜けが、なかなか成功しなかったわけ
以前の記事でもご紹介したように
「親に売られて吉原に」逃げようとした遊女に課せられた残酷な罰とは
https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/100829/
当時、吉原からの脱走を防ぐために、さまざまな手段が講じられていました。
物理的に逃げ出すことが極めて困難だった背景には、新吉原の周囲に掘られた深く幅広い堀、通称「お歯黒どぶ」の存在があります。
この堀は、当初は幅約9メートルにも達していたという説もあり、簡単に渡れるものではありませんでした。
また、大門付近には常時監視する「番人」が詰めており、出入りする人々を厳しく見張っていました。
さらに、遊女には通行を許す「切手」が発行されず、自由に外へ出ることは制度的にも封じられていたのです。

画像:お歯黒どぶの石垣擬定地 (石を積み上げたものは、お歯黒どぶの石垣の跡と推定)photo-ac creampasta
けれども、足抜けを躊躇させた理由はそれだけではありませんでした。
足抜けの際には、多くの場合、遊女の間夫や恋人といった男性側が、手引きをする者を雇って脱走経路を確保していました。しかし、その計画が失敗すれば、関係者全員が連帯責任を問われ、処罰の対象となってしまうのです。
さらに、足抜けが発覚した瞬間から、大規模な人海戦術による捜索が始まります。
その際にかかる捜索費用は、逃走しようとした遊女本人の借金として上乗せされる仕組みでした。
つまり、失敗すれば借金がさらに増え、その分、年季も延びてしまうという大きなリスクがあったのです。
仮に、運良く捕まらずに逃げおおせたとしても、それで借金が帳消しになるわけではありません。未払いの債務は、すべて実家の家族が背負うことになっていました。
「辞めたい、逃げたい」と思っても、成功の見込みは少なく、万が一失敗すれば愛する人や家族にまで責任が及ぶことを思うと、どうしても躊躇してしまうでしょう。
そう考えると、「俄祭り」の雑踏に紛れて逃げた、うつせみと新之助の将来が心配になるところです。

画像:俄祭りの雀踊り 歌川国芳 雀踊りpublic domain
うつせみの不在は松葉屋にすぐに発覚するでしょうし、新之助の住居(平賀源内と一緒にいる)もわかっているし、お金はなさそうだし、うつせみは遠くまで歩けなさそうだし(前回の足抜けのときには足を痛めていた)……
いろいろ不安要素ばかり。二人には幸せになって欲しいものです。
「心中」を幕府が禁止した理由

画像:「ここを潜って外に出たい」と多くの遊女が思っていた吉原の入り口の大門。新吉原夕暮れ透視図(歌川豊春) public domain
「間夫とは絶対に一緒になりたいけれど足抜けに成功する気はしない、けれども年期明けまで客をとり続けることはもう耐えられない…」
と、追い詰められた挙句、心中してしまう男女も少なくないようでした。
しかし、幕府は心中を禁止していました。
そのうえ、失敗すると日本橋で晒し者にされたうえに、遊女は遊郭でさらに罰を受けることもあったそうです。

画像:晒刑。江戸では日本橋南詰高札場がその処刑場として用いられた public domain
幕府が心中を禁じた背景には、さまざまな理由があったとされています。
まず、心中が芝居や世間で美化され、次第に流行していくことで、社会秩序の乱れを招くことが懸念されました。
また、恋愛という私的な欲望を優先し、親や家族への義務を放棄する行為は、儒教に基づく「孝」の精神に反すると考えられていました。
さらに、心中によって若者や働き盛りの人々が命を落とすことは、人手不足を招き、労働力の面でも社会に悪影響を及ぼすとされていました。
加えて、遊女が心中により命を落とすと、その妓楼には大きな損害が出てしまい、幕府公認の遊郭全体の経済にも悪影響が及ぶ可能性があったのです。
こうした事情から、幕府は心中を厳しく禁じ、実際に起きた場合には以下のような処分が下されていました。
「心中」後の罰

画像:深く愛し合うも悲劇的な最後を迎えた、吉原のトップ花魁・小紫(豊原国周)と白井権八(三代目豊国) public domain
心中で男女両者が亡くなった場合
▪️遺体は投げ込み寺に
幕府は心中した人間を「不義密通」の罪人と見なし、遺体を穢れたものとして扱いました。
丁寧に葬られることなく、野ざらしにされたり、無縁仏として共同墓地に埋葬されたり、浄閑寺(通称「投げ込み寺」)のような場所に、菰(こも)にくるまれたまま投げ込まれるなど、きわめて粗末な扱いを受けました。
▪️家族への引き渡しの制限
心中を美化せず社会的制裁を加えるために、遺体は家族に引き渡されませんでした。
▪️事件の詳細を公表
心中の美化や模倣防止のために、場合によっては心中の内容を開示することもありました。

画像:吉原遊廓近く、遊女の投げ込み寺としても知られる浄閑寺 phote-ac creampasta
どちらか生き残った場合
生き残った者は、双方同意の心中だとしても結果的に相手を死なせてしまっているので、殺人罪として死刑(斬首)に処されることもありました。
公衆の面前で晒し者にされる、江戸追放や死罪、遊女の場合は店での折檻のあとに幕府の裁を受けるなど、厳しい処分が下されました。
両方生き残った場合
日本橋で三日間ほど晒し者にされた後、非人(ひにん、社会的最下層の身分)に落とされました。
遊女は遊郭に連れ戻され、楼主や遣手による私刑(折檻など)を受け、間夫は遊郭への出入り禁止や追放処分を受けることもありました。
厳しく禁じられたこそ人気を博した「心中物」

画像:遊女の浦里と相思相愛の仲となった時次郎。新内節の一曲「明烏夢泡雪」(歌川国貞)public domain
享保8年(1723年)、幕府は心中を題材とした狂言や絵草子の出版・上演を禁止し、心中を図った者への具体的な処罰を定めた「男女相対死処罰令」を発布しました。
しかし、禁じられれば禁じられるほど、庶民の間では心中を題材にした芝居・浄瑠璃・浮世絵などが人気を博したのです。
心中物への共感と幕府への反感

画像:深く愛し合っていた白井権八と小紫花魁(喜多川歌麿)public domain
吉原という苦界の中で、深く愛し合った男女が死によってしか結ばれない‥‥そんな「悲恋」の物語に、多くの人々が強く共感しました。
しかしその背景には、単なる情緒的な共鳴だけでなく、当時の社会構造や感情の抑圧が深く関わっていたようです。
こうした作品には幕府への反発心も反映されていました。
表向きは娯楽として楽しめる芝居であっても、その中には幕府の統制や道徳規範に対する皮肉が込められており、そうした含意を感じ取った観客から大きな支持を集めたのです。
また、その多くは実際の心中事件をもとに作られていたので、リアリティを感じられたということもあるでしょう。

画像:「天満屋おはつ平野屋徳兵衛 霜剣曽根崎心中」歌川国貞 public domain
また、幕府が心中を禁じた理由が「社会秩序の乱れを防ぐ」「労働力の損失を防止する」「遊郭経済への悪影響を避ける」など、あくまで体制維持や経済的な打算に基づくものであったため、庶民の側では逆に、心中に「情愛」や「抗いの物語」を見出すようになった、という説もあります。
その影響は現在にまで及んでおり、「心中物」として描かれた浄瑠璃、芝居、歌舞伎、浮世絵など、さまざまな名作が今なお伝えられています。
これらについては、またの機会にあらためてご紹介したいと思います。
参考:
『遊郭と日本人』田中優子
『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町』堀江宏樹
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』安藤優一郎
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
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