◆半次郎/六平直政
はんじろう/むさか・なおまさ
蔦屋向かいの“つるべ蕎麦(そば)”の主
五十間道、茶屋・蔦屋の向かいにある蕎麦屋“つるべ蕎麦”の主。幼いころから蔦重(横浜流星)や次郎兵衛(中村蒼)を見守ってきた。※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
江戸っ子と言えば蕎麦、まさにソウルフードと言ってもいいでしょう。
蔦重たちも、いつもそばをすすっているイメージです。
そんな彼らに蕎麦を提供しているのは、劇中でもおなじみ、つるべ蕎麦。
実在の蕎麦屋であり、主人の半次郎(増田屋半次郎)も実在していました。
今回はそんな半次郎が営んだ、つるべ蕎麦の歴史について紹介したいと思います。
寛保年間初期に開業?

画像 : 蕎麦の御用は、釣瓶蕎麦まで(イメージ)
釣瓶蕎麦(つるべそば)を開業したのは、若松屋幸助(わかまつや こうすけ)という人物と考えられているそうです。
また店名は、食器を釣瓶のように吊るして蕎麦を配達したことに由来しています。
……八、九年前、土手のやり口に釣瓶そばと云(言)ふありて、大きにもてはやれり。其(その)器物(きぶつ)升形(ますがた)釣瓶の様にして、提げて持行しとなり。至極よろしき製(つくり)なりと。今はなし。若松屋幸助と云ふ者拵(こしら)へしとなり……
※日新舎友蕎子『蕎麦全書 巻之上』より。
この「八、九年前」とは『蕎麦全書』が発行された寛延4年(1751年)を基準とした場合、寛保2~3年(1742~1743年)と考えられます。
当時に流行っていたということは、それ以前から開業したと考えるのが自然でしょう。
しかし文中に「今はなし」とあるので、一度(寛延4・1751年より前に)廃業したのでしょうか。
あるいは「今はなし」が「器物升形」にかかっているのだとしたら、釣瓶蕎麦を廃業したのではなく、ただ釣瓶のような食器を使わなくなっただけかも知れません。
この場合「若松屋幸助と云ふ物拵へ」たのが食器であって、その食器は若松屋幸助が「至極よろしき製」に拵えたものと考えられます。
文章を読む限りでは、若松屋幸助が店を拵えた(釣瓶蕎麦を開業した)のか、釣瓶蕎麦のトレードマークとなった食器を拵えたのか断定できません。
ともあれ、土手のやり口(吉原五十間道)で店を構え、大層繁盛していたのは確かでしょう。
増田屋次郎介・清吉の時代

画像 : みんな大好き、釣瓶蕎麦(イメージ)
一度廃業したのかはっきりしない釣瓶蕎麦ですが、明和4年(1767年)の吉原細見『初紅葉(はつもみじ)』には、若松屋の跡に「つるべそば 増田屋次郎介(ましだや じろすけ)」が登場しています。
これは若松屋が廃業した後に人気店の屋号を自称したのか、あるいは若松屋から釣瓶蕎麦を受け継いだのか、これもはっきりしません。
明和9年(1772年)には吉原伏見町に「増田屋清吉(せいきち)」が出店。五十間道の増田屋ともども人気店として繁盛したそうです。
特に五十間道の釣瓶蕎麦は駕籠の乗降場となっていたことから、待ち合わせの客などで賑わいました。
乗リつけハ つるべそばあた り(辺り)へおろし
【歌意】駕籠で吉原へ遊びに来た客は、釣瓶蕎麦の辺りで下ろされる。
あの四ツ手(よつで) 壱分(いちぶ)〆た(しめた)と 釣瓶蕎麦
【歌意】あの四手(粗末な駕籠、転じてその駕籠かき)、お客から料金を一分ごまかしたのを、釣瓶蕎麦の主人が見抜いた。
そば屋の前 で客みんな 下乗(げじょう)なり
【歌意】どんなに偉い身分のお客であっても、釣瓶蕎麦の前まで来たら、駕籠を下りて歩かねばならない。
これらは当時の狂歌ですが、まるでみんなが釣瓶蕎麦に遠慮して駕籠を下りているように見えたかも知れませんね。
「ちょうど蕎麦屋もあるし、軽く腹ごしらえしておこうか」
せっかく吉原で遊ぶのに、目の前の御馳走にがっついてしまっては興醒めというもの……こうして釣瓶蕎麦は、また売り上げを伸ばしたことでしょう。
半次郎が主人だったのは約8年間

画像 : 相も変わらず、大繁盛(イメージ)
そんな五十間道の釣瓶蕎麦を、増田屋半次郎が受け継いだのは安永4年(1775年)。
大河ドラマの劇中では半次郎だけで切り盛りしているような印象ですが、実際に主人となったのは物語が少し進んでからでした。
(※)大河ドラマは明和9年(1772年。安永元年)が物語のスタートです。
なお、同年の吉原細見には増田屋の隣に「若松屋隠居」と記されており、若松屋幸助は事業を引退した後もすぐそばに暮らしていたことがわかります。
半次郎は天明3年(1783年)に、増田屋半四郎(はんしろう)へ店を譲りました。
この半四郎は息子か親戚か、あるいは奉公人に屋号を継がせたのかも知れません。
しかし、天明5年(1785年)に釣瓶蕎麦の名は吉原細見から削られており、廃業してしまったものと見られます。
その店舗は若松屋と逆隣の兵庫屋藤介(ひょうごや とうすけ)に買い取られたのでした。
釣瓶蕎麦の歴史

画像 : たまにはこんな失敗も?(イメージ)
・時期不詳 若松屋幸助?が釣瓶蕎麦を開業
・寛保2~3年(1742~1743年) 釣瓶蕎麦が繁盛する
・時期不詳 釣瓶蕎麦が一度廃業?
・寛延4年(1751年) 日新舎友蕎子『蕎麦全書』で言及される
・明和4年(1767年) これ以前に増田屋次郎介が同所に釣瓶蕎麦を再開?承継?
・明和9年(1772年) 吉原伏見町に増田屋清吉が蕎麦屋を開業
・安永4年(1775年) 増田屋半次郎が釣瓶蕎麦を承継
・天明3年(1783年) 増田屋半四郎が釣瓶蕎麦を承継
・天明5年(1785年) 釣瓶蕎麦が廃業、店舗は兵庫屋藤介に買い取られる
釣瓶蕎麦(五十間道)の歴代主人
・初代 若松屋幸助(寛保2・1742年以前?~明和4・1767年以前)
・2代目 増田屋次郎介(明和4・1767年以前~安永4・1775年)
・3代目 増田屋半次郎(安永4・1775年~天明3・1783年)
・4代目 増田屋半四郎(天明3・1783年~天明5・1785年)
終わりに
今回は、増田屋半次郎と釣瓶蕎麦の歴史について調べてきました。
物語は既に天明3年(1783年)にさしかかっているため、半次郎の引退が近づいているようです。
そして、天明5年(1785年)には釣瓶蕎麦が廃業……これからは一体どこで蕎麦を頼めばいいのでしょうか。
ただ半次郎自身は生没年不詳のため、物語の最後まで登場してほしいですね。果たしてどうなることやら、六平直政の好演に期待しています。
※参考文献:
・佐藤要人 監修『川柳蕎麦切考』太平書屋、1982年4月
・新島繁『蕎麦史考』錦正社、1975年
・新島繁『蕎麦の事典』講談社学術文庫、2011年5月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
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