田沼意次の失脚と入れ替わりに勃興した、松平定信政権。
いわゆる「寛政の改革」においては、庶民に対する厳しい思想統制や出版規制が行われました。
そんな中でも文化人らはしたたかな抵抗を試みますが、一人また一人と潰されていきます。
今回は、朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)が断筆するきっかけとなった、黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』を紹介。
果たしてどんな内容だったのでしょうか。
上巻 〜文武の士とぬらくら武士〜

画像 : 朋誠堂喜三二『文武二道万石通』より、洞窟内で振り分けられていく御家人たち。Public Domain
時は鎌倉、将軍・源頼朝が忠臣の畠山重忠(はたけやま しげただ)を呼び出しました。
「天下泰平の世では、文武のうち武がおろそかにされてしまう。現状を把握するため、ここ鎌倉では文武どちらの資質を備えた者が多いか、御家人たちを調べよ」
すると重忠は「文と武、そしてどちらでもない『ぬらくら武士』も調べましょう」と答え、さっそく御家人たちを富士山の人穴(ひとあな)へ集めます。
人穴の中には様々な横道があり、それぞれの気質に応じて別々の出口へと誘導されていきました。
文の気質を持つ者は文雅洞から、武の気質を備えた者は妖怪窟から、そして文にも武にも心得のない「ぬらくら武士」たちは長生不老門から出て来ます。
なぜなら文雅洞は「俗物の立ち入りを許さず」とあり、妖怪窟は「軟弱者は立ち入るべからず」とあり、どちらにも行けない「ぬらくら武士」だけが長生不老門へと誘導されたからです。
果たして振分けの結果は、武の方が文よりも若干多いとわかりました。
報告を聞いて頼朝は一安心。
しかし重忠は、最も多かった「ぬらくら武士」をどうしようかと思案に暮れます。
中巻 〜ぬらくら武士の温泉旅行〜

画像 : 朋誠堂喜三二『文武二道万石通』より、陰間と遊んだり相撲をとったりする御家人たち。Public Domain
重忠は、工藤祐経(くどう すけつね)と結城朝光(ゆうき ともみつ)を呼び出し、例の「ぬらくら武士」たちに休暇を与え、箱根へ湯治に行かせました。
21日間、彼らが何をしていたかと言いますと……。
・箱根湯本では、蹴鞠やジャンケン、聞香に茶の湯が流行しました。
・塔ノ沢では、将棋にカルタ、連歌などで盛り上がります。
・堂ヶ嶋では、能に乱舞に魚釣り。中には投網を持ち出す者まで……。
・宮ノ下では、楊弓(的当て遊び)や義太夫節が流行りました。
・木賀では、河東節の声が響き、駒鳥や鶉(うずら)の飼育が人気です。
・底倉では、陰間遊びの興が嵩じて裸で相撲を取り出す始末。
・芦の湯では、地獄谷でナンパしたり、盗賊に身ぐるみはがされたり……。
とまぁ散々に遊び惚けている様子を、重忠らはしっかりと監視しているのでした。
下巻 〜文とも武とも言ってみろ〜

画像 : 朋誠堂喜三二『文武二道万石通』より、無間の鐘を撞こうとする御家人たち。Public Domain
さて、御家人それぞれの遊びぶりを、あえて文武に分類することにします。かなりこじつけですが、大目に見てください。
【文】茶道、香道、華道、蹴鞠、俳諧、豊後節、河東節、鳥飼い……等々。
【武】囲碁、将棋、乱舞、釣り、投網、義太夫節、楊弓、相撲……等々。
どうしても割り振れない者については、どうにもならない筋金入りの「ぬらくら武士」に認定されたのでしょうか。
とまぁそうこうしているうちに休暇も終わり、御家人たちは鎌倉へ帰ろうとしますが、大磯の辺りで川が増水。
しばし、足止め(川止め)を食ってしまいました。
「どうだろう、まぁ……せっかくだから遊んで行こう」
御家人たちは大磯の遊郭に半月ばかりも逗留し、女遊びに興じます。
女郎屋の方もここぞとばかり稼いでやろうと、揚代から何から値上げしたので、御家人たちはとうとう三万両のツケをこしらえてしまいました。
「これでは川止めが終わっても、借金を返すまで帰れないぞ」
「あぁ、三万両が欲しいなあ」
御家人たちは、無間の鐘(むけんのかね)を撞いて金を出そうと、揃いの浴衣に着替えて手に手に柄杓を持ち、池を手水鉢に見立てて打ちつけようと振り上げます。
※無間の鐘とは、撞けば死後無間地獄に堕ちるが、現世ではどんな願いも叶うとされる観音寺(静岡県掛川市)の伝承。
するとなぜか都合よく、三万両もの大金が池の中から湧き出します。
実は、これは重忠が用意しておいたもので、川止めも重忠の計略によるものでした。
こうして鎌倉に帰り着いた御家人たちは、これまでの為体(ていたらく)を頼朝から叱られたのでした。
「文とも武とも(ウンともスンとも)言ってみろ!」
情けない御家人たちは返す言葉もなく、ただ平伏するばかり。
ここは「文とも武とも」と「ウンともスンとも」を掛けた洒落になっており、この一言で物語はオチを迎えます。
絶版処分、そして断筆

画像 : 朋誠堂喜三二『文武二道万石通』より、頼朝に「文とも武とも言ってみろ」と叱られる御家人たち。Public Domain
以上が『文武二道万石通』のざっくりしたストーリーです。
これは、田沼政権において武士たちが奢侈に流れ、軟弱化してしまった様子を風刺していました。
源頼朝は徳川家斉、畠山重忠は松平定信をモデルとしています。昔から重忠は文武両道の忠臣として人気でした。
他の「ぬらくら武士」たちには主に田沼派が当てられ(それとわかるように描写)、滑稽な様子が読者の笑いを誘ったことでしょう。
ちなみにタイトルの万石通(まんごくどおし)とは、収穫した稲穂を選り分ける農具で、千石通とも言います。
重忠が御家人たちを文武と「ぬらくら武士」に選り分けた様子を表すものでした。
御政道に言及するのは御法度では?……と思ったら、田沼叩き&定信アゲの内容であることから、はじめは当局も見逃していたようです。
しかし、天明9年(1789年)に出版された恋川春町『鸚鵡返文武二道(おうむがえし ぶんぶのふたみち)』、唐来参和『天下一面鏡梅鉢(てんかいちめん かがみうめばち)』などと共に絶版処分とされてしまいました。
朋誠堂喜三二の主君である佐竹家(久保田藩)はお叱りを受け、朋誠堂喜三二は江戸から国許へ戻されてしまったのです。
以来、朋誠堂喜三二は、戯作から引退を余儀なくされるのでした。
終わりに

画像 : 朋誠堂喜三二こと平沢常富 Public Domain
今回は、朋誠堂喜三二『文武二道万石通』を紹介してきました。
田沼を叩き、定信をもちあげれば大いに売れる……蔦重の狙い通り、正月に売り出して七種(七草粥。1月7日)までには売り切れるほどの大人気だったそうです。
これまで田沼政権下で成り上がってきた蔦重が、政権交代で変節したのか……と思ったら、実は定信政権に対する皮肉でした。
しかし程なくその「穿ち」を見抜かれ、出版規制の逆風を受けることになります。
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、本作が世にどのような反響をもたらすのか、注目していきましょう!
※参考文献:
・棚橋正博『日本書誌学大系 黄表紙總覧 前編』青裳堂書店、1986年8月
・棚橋正博ほか注解『新編日本古典文学全集79 黄表紙 川柳 狂歌』小学館、1999年7月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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