内憂外患と言えば、それぞれ国内の問題と外国からの侵略を表しますが、歴史をひもといてみると、どっちかだけという事例は少なく、国の内と外で同時にトラブルが発生していることが多いものです。
いざ国難に際して、現場が必死の対応を迫られる一方で、中央政府はグダグダorどこ吹く風……なんてエピソードは、どの時代であっても大なり小なり存在します。
そこで今回は、平安時代中期の異民族侵略「刀伊の入寇(寛仁3年・1019年)」について紹介。今も昔も変わらない?日本のお役所体質を垣間見られることでしょう。
平安時代の日本に、異民族が襲来!
さて、刀伊(とい)とは朝鮮半島の古代王朝・高麗(こま)国で「東方の蛮族」を意味する「東夷(トイ)」に漢字をあてた言葉で、現代の中国北東部からシベリア南東部にかけた満洲地方の騎馬民族・女真(ジュルチン)族と考えられています。
日本からするとかなり北方に住んでおり、わざわざ日本海の荒波を越えて来るにはリスクが高すぎ、また朝鮮半島を通過するには高麗国や新羅(しらぎ)国など諸王国が立ちはだかっているため、藤原実資(ふじわらの さねすけ)などは
「高麗の賊徒が刀伊を騙(かた)っているのではないか」
と疑っています。彼らは平安時代前期の9世紀ごろからおよそ200年間、数十回にわたって九州沿岸を襲撃しており、当局もほとほと手を焼いていたのです。
そんな寛仁3年(1019年)3月27日、50隻(約3,000人)という大船団で渡海した刀伊たちは対馬国(現:長崎県対馬市)に上陸。島内を荒らし回り、国司の対馬守遠晴(つしまのかみ とおはる)を追い払いました。
勢いづいた刀伊たちは4月7日に壱岐国(長崎県壱岐市)も襲撃。国司の壱岐守藤原理忠(ふじわらの まさただ)は果敢に抵抗するも衆寡敵せず、あえなく全滅。
いよいよ九州上陸を目前にした刀伊の軍勢を迎え撃ったのは大宰権帥(だざいごんのそち。大宰府の長官)であった藤原隆家(ふじわらの たかいえ)。たまたま療養のために出向していた公卿ですが、獰猛な賊徒に太刀打ちできるのでしょうか。
対応は現場に丸投げ…国難が迫っても他人事な朝廷
国家の一大事とあって、さっそく朝廷に救援要請を出した隆家でしたが、ここで日本の悪しきお役所体質が露呈します。
「何だこの書状は……書式が間違っておるではないか!」
隆家は救援要請を太政官(だいじょうかん)に当てて出したため、そこには天皇陛下に対してモノを申し上げる時に入れるべき「奏」の字が抜けていたというのです。
現代人なら「今はそれどころじゃないだろ!」とツッコミを入れるところですが、当のお役人たちは大まじめです。
刀伊たちの侵略よりも、この書式ミスをどうすべきか……そんな議題にさんざん時間を浪費した挙げ句、出した結論は「今後、朝廷に対する文書は天皇陛下のお目にとまることも想定して、必ず『奏』の字をつけること!」という指示。
その他、西国各地には都へ攻め上ってくる者がいないか警戒するように命じ、自分たちは神社仏閣で賊徒調伏の祈祷に勤しむばかり……要するに、刀伊の討伐・対処については「現場に丸投げ」したのでした。
「ちっくしょう……あの役立たずどもめ!」
この国難を前にしながら、あまりの他人事ぶりに怒り心頭の隆家でしたが、嘆いている暇はありません。
「よぅし者ども、こうなったら俺たちだけで食い止めるしかねぇ!」
と覚悟を決めたものの、隆家の周囲にいるは仲の悪い武士団ばかりで、文字通りの「寄せ集め」でした。隆家が大宰府へ出向する際、九州で勢力基盤を築き上げることを恐れた中央の連中が、互いに団結しないよう配置しておいたのです。
「アイツら、本当に自分たちの保身しか考えてねぇなオイ!」
隆家は朝廷を牛耳っている連中に悪態をつきながらも、団結して刀伊を撃退するべく武士たちを説得して回りましたが、その反応は散々なものでした。
「嫌だよ。俺はお前が嫌いだし、他の連中と組むのも嫌だ」
「どうせロクに褒美もくれねぇんだろ?タダ働きはゴメンだね」
「かく言うアンタも、本当は中央の連中に一泡吹かせてやりてぇんだろ?だったら刀伊の連中と組んで、都まで攻め上ろうぜ!」
日ごろ粗末に扱ってくる朝廷が、いざ有事になって助けてくれ(何とかしてくれ)なんて虫がよすぎる……そんな鬱屈した感情を前に、隆家は考え込んでしまいます。
寄せ集め武士団の意地を見せてやる!
しかし、隆家は説得を続けました。
「確かに、中央の連中憎しで刀伊と共に暴れ回れば、いっときの憂さは晴れるだろう。しかし、それで後悔はないだろうか?」
故郷の土を異民族の馬蹄に踏みにじらせ、同胞を見殺しにして、その先に辿る末路が幸せなものとは思えない。日ごろ政治を批判してきたのは、単に私情や利害ではなく、天下公益を第一に考えればこそ。
「身内のいがみあいや、中央への不満も、異民族を撃退できてこそ。今この場だけは、どうか皆の力を貸してはくれまいか」
あまりに激しい政治批判によって時の権力者である藤原道長(ふじわらの みちなが)らに疎まれ、追われるように都を出て来た隆家でしたが、大宰府に来てからは、仁政に努めたことで一定の人望を築いていました。
「……仕方ねぇ。アンタがそこまで言うなら、助太刀してやるよ」
「まぁ、朝廷の連中は気に入らねぇが、異民族に故郷を蹴散らされるのはもっと嫌だからな」
「みんなで生き残ったら、また仲良く殺し合おうぜ!」
「忝(かたじけな)い、忝い……!」
かくして結集した寄せ集め武士団は4月9日、いよいよ九州への上陸を敢行した刀伊の軍勢と激突。血で血を洗う死闘が繰り広げられたのでした。
この歴史的な国土防衛戦に参加した主な武士は大蔵種材(おおくらの たねき)、大蔵光弘(みつひろ)、藤原明範(ふじわらの あきのり)、藤原助高(すけたか)、藤原友近(ともちか)、藤原致孝(むねたか)、平致行(たいらの むねゆき)、平為賢(ためかた)、平為忠(ためただ)、財部弘近(たからべの ひろちか)、財部弘延(ひろのぶ)、紀重方(きの しげかた)、文屋忠光(ふんやの ただみつ)、多治久明(たじの ひさあき)、源知(みなもとの さとる)……などなど、これまでの私怨を乗り越えて一致団結。
武士のみならず、大宰府に勤めていた文官にまで武器を持たせ、合戦に参加させたという必死ぶりが功を奏して、見事に刀伊を撃退します。
「よっしゃあ!」
「見たか、寄せ集めの底力を!」
「これだけの武功であれば、さぞや恩賞も……」
期待できないだろうな……隆家の不安は、残念ながら的中してしまうのでした。
エピローグ
刀伊たちを撃退したとの報せを受けて、朝廷では相も変わらず議論が紛糾していました。そんな今回の議題は「隆家たちに恩賞をやるべきか否か」。
恩賞をやる必要はない、している者たちは「賊徒を撃退しろとは言ったけれど、恩賞を約束した時点で戦闘は終わっており、約束前の戦闘はあくまでも私闘に過ぎない」と主張。
しかしそれでは、今後「恩賞の確約がとれるまで、ずっと目の前の敵を見過ごす」事態が発生しかねず、悪しき前例としないためにも公正に忠功武勲を評価すべきと藤原実資が反論。
これにより「本来なら恩賞をやる必要はないが、お情けでくれてやろう(意訳)」という決議がなされ、まぁそれなりの恩賞が与えられたのでした。
「……ま、こんなもんだよな」
その後、隆家は九州で人望を集めることを恐れた中央政権によって京都に呼び戻されますが、周囲に味方は少なく、また翌年(寛仁4年・1020年)には京都で疱瘡の病が大流行したため、「これは隆家が刀伊と戦った時に憑いた(感染した)ものを都へ持ち込んだに違いない」という噂も流れ、肩身の狭い思いをさせられます。せっかく国家のために戦ったのに、そんな扱いばかりでは、死んでいった仲間たちも浮かばれません。
心ある人々の献身によって支えられながら、用済みとなればゴミクズのように捨て去って顧みない日本のお役所体質……こうした悪しき伝統ばかりは、早々に改められることも心より願うばかりです。
※参考文献:
日本書籍保存會『史料通覧 小右記 二』1915年5月
臼杵勲ら『北方世界の交流と変容―中世の北東アジアと日本列島』山川出版社、2006年8月
葉室麟『随筆集 柚子は九年で (文春文庫)』文春文庫、2014年3月
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