鎌倉を訪れる楽しみの一つに、街の随所に点在する寺院めぐりがある。
鎌倉市内の寺院は約110ヵ所とされ、数の上では決して突出して多いわけではない。
しかし、それぞれの寺院が鎌倉ならではの歴史を刻み、数々の優れた仏像や文化財を今に伝えている点が特徴だ。
今回は、そんな鎌倉と仏教の深い関わりに焦点を当て、とりわけ平安末期から鎌倉初期にかけて新たに興隆した「鎌倉新仏教」について紹介していきたい。

画像:光明寺 本堂 public domain
奈良時代創建の寺院が鎌倉にある理由
鎌倉と仏教の関わりが、実は奈良時代にまで遡ることをご存じの方は少ないかもしれない。
というのも、鎌倉が京都と並ぶ政権の本拠地として確立されるのは平安時代末期以降のことであるが、それ以前からすでに仏教文化の息づく地であったからである。
鎌倉には、杉本寺や長谷寺のように、奈良時代の創建と伝わる寺院が存在する。

画像:杉本寺本堂 public domain
鎌倉最古の寺院といわれるのが杉本寺である。
同寺の縁起によれば、その創建は734年(天平6年)。聖武天皇の后・光明皇后の発願により、藤原房前(ふじわらのふささき)と行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって建立されたという。
史料上、行基は近畿地方を中心に活動した僧として知られるが、伝承によれば、731年(天平3年)に東国を遊行中、「この地に観音さまを安置しよう」と決意し、自ら十一面観音像を刻んで安置したとされる。
この像は、現在、三体の本尊のうちの一つであり、残る二体はそれぞれ851年(仁寿元年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)、986年(寛和2年)に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が造立したものと伝わる。

画像:長谷寺山門 public domain
鎌倉の長谷寺もまた、古くから十一面観音を本尊とする寺として知られている。
寺伝によれば、奈良時代の天平8年(736年)に、徳道上人を開山、藤原房前を開基として創建されたと伝わる。
養老5年(721年)、徳道上人が一本の霊木から二体の観音像を刻み、一体を奈良の長谷寺に祀り、もう一体を海に流したところ、のちにその像が相模の海辺に漂着し、房前がこれを鎌倉に安置したとされている。
この伝承は奈良の長谷寺には見られず、実際の創建事情は明確でないが、鎌倉の長谷寺が古くから観音信仰の中心として崇められてきたことは確かである。
このように、奈良時代創建と伝わる杉本寺や長谷寺には、藤原氏ゆかりの伝承が多く残る。
光明皇后と藤原房前はいずれも藤原不比等の子であり、さらに鎌倉の地名もその父・藤原鎌足にまつわる「鎌槍伝説」に由来するといわれている。
伝説によれば、鎌足が鹿島神宮へ向かう途中、由比の里に宿泊した夜、夢に現れた老翁が「鎌槍をこの地に埋めれば天下は泰平となる」と告げた。
鎌足はその神託に従い、所持していた鎌槍を大倉の松ヶ岡に埋め、祠を建てて祀ったという。
この故事が「鎌倉」という地名の由来になったと伝えられている。

画像:談山神社藤原鎌足像 wiki.c
実は、律令国家の時代における鎌倉は、東海道から三浦・房総へと通じる交通の要衝であり、相模国鎌倉郡の行政中心地でもあった。
したがって、畿内との往来も多く、時の権力者である藤原氏を介して仏教文化が早くから伝わっていたとしても、何ら不思議ではないのである。
仏教界に大きな変革をもたらした鎌倉新仏教
鎌倉時代は、日本の仏教が大きな変貌を遂げた時代であった。
その背景には、貴族中心の社会から武士中心の社会への転換が挙げられる。
この権力移行は、単なる政治的な構造変化にとどまらず、経済システムにも根本的な変革をもたらした。
特に、平安後期から行われていた宋銭の輸入によって貨幣経済が浸透すると、商業ネットワークが発達し、各地では月に三度開かれる定期市(三斎市)が盛んに開かれるようになった。
さらに、常設店舗である見世棚(みせだな)も登場した。

画像:法然上人絵伝 public domain
このように、社会の担い手が武士や商人などへと広がるにつれ、平安時代のように皇族や貴族だけが来世の極楽浄土を願う仏教とは異なり、より現実的で、武士や庶民にも開かれた仏教が台頭していった。
これこそが、いわゆる「鎌倉新仏教」である。
「鎌倉新仏教」には諸説あるが、一般的には大きく三つの系統に分類される。
第一は、念仏を中心とする念仏宗で、法然の「浄土宗」、親鸞の「浄土真宗」、一遍の「時宗」。
第二は、禅の修行を重んじる禅宗で、栄西が開いた「臨済宗」と道元が開いた「曹洞宗」。
第三は、日蓮が開いた法華宗(日蓮宗)である。
今もなお鎌倉の寺々に息づく名僧たちの教え
鎌倉幕府の開府とともに、多くの新仏教の祖師たちが鎌倉で布教活動を行った。
なかでも禅宗、とりわけ臨済宗は、北条氏との結びつきの中で大きく花開いた。
臨済宗を開いた栄西は、旧仏教勢力からの迫害によって京都での布教に限界を感じ、鎌倉幕府の庇護を求めて1200年(正治2年)に鎌倉へ下向した。

画像:明菴栄西像 public domain
栄西は北条氏の尊崇を受け、北条政子を開基として寿福寺の開山となった。
当初の寿福寺は、京都での経験を踏まえ、天台・真言・禅の三宗を兼学する寺として創建されたと伝えられる。
北条氏の歴代執権は、こうした禅宗の興隆に積極的であった。
北条時頼が、蘭渓道隆を招いて建長寺を開いたのをはじめ、円覚寺、浄智寺、東慶寺などの禅宗寺院が次々と建立された。

画像:建長寺 public domain
一方、同じ禅宗の曹洞宗を開いた道元は、権力との結びつきを嫌ったことで知られる。
北条時頼の招きを受けて鎌倉に赴いたと伝えられるが、その際も寺院の寄進の申し出を固辞したといわれる。
これに対し、浄土宗・浄土真宗・時宗などの念仏宗は、既成教団との摩擦や停止令などの弾圧も受け、鎌倉を恒常的な中核拠点とすることは難しかった。
しかし、浄土宗の一派である西山義(浄土宗西山派)は、北条氏一族にも受け入れられ、鎌倉では材木座の来迎寺などを拠点に教線を広げた。

画像:日蓮 波木井の御影(身延山久遠寺蔵)public domain
また、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて救済を説いた日蓮は、1260年(文応元年)に『立正安国論』を著し、鎌倉幕府に上奏した。
当時の地震・飢饉・疫病などの災厄を、仏法衰退による国家の乱れと捉え、法華経への帰依こそが国を安んずる道としたのである。
しかし、その主張は他宗を激しく批判するものであったため、幕府に危険視される。
やがて日蓮は、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、龍ノ口の法難と、幾度にも及ぶ迫害を受ける身となった。
一方、旧仏教の側でも、奈良・西大寺の叡尊が既存仏教の形骸化を憂い、慈悲の実践と戒律の復興を掲げて鎌倉に下る。
彼に帰依した北条実時の支援を受け、弟子の忍性が極楽寺を開山。病人や貧民の救済など、現実社会の中で仏の道を体現した。
このように、鎌倉で活躍した名僧たちの教えは、今もなお鎌倉の寺々に息づいている。
それぞれの寺院の歴史に触れながらめぐることで、鎌倉の寺院めぐりはより深みのある体験となるだろう。
※参考文献
鎌倉仏像さんぽ編集室(高野晃彰)著 『鎌倉 仏像さんぽ』 メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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