源義経といえば鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟であり、後に兄である頼朝に朝敵の汚名を着せられ非業の最期を遂げた武将だ。
平氏滅亡後、兄と対立し英雄から一転して逆賊として追われるようになった義経に付き従い、幕府側に捕らえられた後も一途に義経を愛し続けた女性、それが静御前(しずかごぜん)である。
義経と静御前の悲恋は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されているほか、数々の能やかぶきなどの題材として取り上げられ、現代でも映画やドラマなどの映像作品でドラマティックに描かれている。
今回は歴史に名を残した悲劇のヒロイン・静御前について解説する。
静御前とは
静御前の生没年はわかっていないが、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた女性だ。静御前は歴史に名を残す白拍子の名手、磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた。出生地については京都府京丹後市の磯地区といわれている。
白拍子とは、男装した女性(時には子供)が現代でいう詩吟や当時の流行歌(和歌)を歌いながら舞う芸で、それを演ずる者のことも白拍子と呼んだ。
白拍子には遊女としての側面もあったが、貴族の屋敷に出入りして歌舞を披露していたため品格と教養に優れた女性が多く、地位のある人物の愛妾となった白拍子は歴史上少なくない。
静御前もそのうちの1人であり、当時多くの女性と関係を持っていた義経に最も愛されていた女性といわれている。
静御前は義経と出会う前から、舞いの名手として知られた白拍子だった。
白拍子は元々巫女舞が起源といわれ、静御前が活躍した当時も巫女として扱われることがあった。静御前にまつわる伝承でこんな話がある。
日照り続きで飢饉が起きた時に、100人の僧侶に読経をさせたが何も起こらず、99人の白拍子に舞を奉納させて雨乞いの儀式を行ったが状況は変わらなかった。しかし100人目の白拍子として静御前が舞い始めた途端、空には黒い雲が広がりその後、3日間雨が降り続いた。
その様子を目の当たりにした後白河上皇は、静御前は神の子だと称え、「日本一」の宣旨を下した。
義経と静御前の出会いから別れまで
義経と静御前の出会いについては、残念ながら公式の記録は見つからなかった。
だが一説には、雨乞いの儀式の件で後白河法皇と面識があった静御前が、一ノ谷の戦いで戦果を挙げて凱旋した義経に一目惚れして、法皇に頼み込み仲を繋いでもらったといわれている。また、住吉での雨乞いの儀式で舞う静御前を義経が見初めたという説もある。
義経には正室である郷御前や妾である蕨姫の他にも多数、男女の関係を持つ女性がいたという。義経が美男子だったという話は創作上のものではあるが、人々を魅了するカリスマ性や源氏の血筋という尊き身分は間違いなくあっただろうから、実際モテたのだろう。
そんな恋多き義経だったが静御前のことを心から愛し、静御前も義経のことを一途に愛した。しかし幸せな時間は長くは続かず、義経は兄である頼朝と対立し、朝敵として追われることになる。
だが義経がかつての地位や栄光を失っても、静御前の愛が尽きることはなかった。
京都を離れ海路で九州へ向かう義経に静御前は同行したが、船は難破してしまって九州行は叶わず、奈良の吉野山での潜伏を余儀なくされる。そこで数日間を過ごした後、静御前は義経と生き別れることとなった。
義経と静御前、弁慶ら義経の従者たちが吉野山で身を隠した場所として伝えられる吉野山の𠮷水(よしみず)神社には、今も「義経・静御前 潜居の間」が残されている。
頼朝に捕らえられた静御前
義経と別れた静御前は金峯山寺の蔵王堂にたどり着き、吉野山を捜索していた僧兵に捕らえられて鎌倉へ送られることになる。
この時既に、静御前は義経の子を身籠っていた。
静御前は義経の行方について何度も取り調べを受けるが、その度に証言を微妙に変えて義経のために時間を稼ごうとした。敵に捕らえられている立場に加えて身重の体でありながらの発言だと思うと、非常に肝が据わっている。
1186年4月8日、静御前は頼朝から鶴岡八幡宮で舞を奉納するよう命じられ召し出される。静御前は義経の敵である頼朝らの前で舞うことを渋っていたが、頼朝の妻・政子の説得により舞台に上がった。
そして静御前は頼朝・政子夫妻の前で歌と舞を披露したのだ。
「よしの山 みねの白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて、姿を隠していったあの人(義経)の跡が恋しい)「しづやしづ しづの苧環(をだまき) くり返し 昔を今に なすよしもがな」
(倭文(しず)の布を織る糸巻から糸が繰り出されるように、義経さまが私を何度も静よ静よと呼んでくださった、昔(義経が活躍していた時)のような日に今一度したいものよ)
『古今和歌集』や『伊勢物語』の和歌になぞらえて義経への想いを歌った静御前に、頼朝は激怒した。
しかし当時では異例の恋愛婚で頼朝と結ばれた妻・北条政子は、静御前の愛する人への切ない想いを歌い舞う姿に感銘を受け、「自分が静と同じ立場だったらあのように歌うでしょう」とかばい、命を助けた。
政子の取り成しで処刑を免れた静御前だったが、不幸はここで終わらない。静御前が妊娠していることを知った頼朝は、生まれた子が男子なら殺すようにと命じる。自らの出自を知り平氏への復讐を成し遂げた自分や弟を、静御前の腹の子に重ねたのだろう。
やがて生まれてきた子は男の子だった。静御前は生んだ子を頼朝の使いに渡そうとせず泣き叫んだが、見かねた母磯禅師に取り上げられ、赤ん坊は鎌倉の由比ヶ浜に沈められた。
その後は静御前の身の上を哀れに思った政子と、頼朝の娘・大姫に多くの重宝を持たされ、母と共に京都に帰って行ったという。
静御前の最期
命がけで生んだ愛する人との子を殺され京に帰された静御前の、その後の消息ははっきりしていない。しかし「判官びいき」とも呼ばれる義経の人気の影響か、義経との関係が深い静御前にまつわる伝承が日本各地に伝えられている。
実は生き延びていた義経が北海道に渡ったという説があり、その経路途中にある岩手県宮古市の鈴ヶ神社は静御前を祀る神社としては日本最北端に位置している。静御前はこの地で義経との間にできて2人目の子を生もうとしたが、難産で母子ともに亡くなったと伝わっている。
また奥州平泉に逃れた義経を追う中で義経の死を知って、現在の埼玉県久喜市栗橋にあたる伊坂で哀しみのあまり病死して高柳寺(現在は茨城県古河市の光了寺)に葬られたという伝説や、母の生まれ故郷である香川県で生涯を終えたという伝説など、北は北海道、南は福岡県まで、日本中の各地に静御前の最期の地として伝わる場所が存在しているのだ。
静御前がいつどこで亡くなったのかその真相は不明だが、必死の思いで守ろうとした愛する人と我が子を奪われた、うら若き女性の悲しみは誰しも想像に難くないはずだ。
だからこそ義経と静御前の美しく悲しい恋物語は人々の涙や哀愁を誘い、各地に静御前の伝承が伝わったのだろう。
参考文献
横井寛『伝承 静御前』
今泉正顕『義経と静御前・二人の「その後」 各地に残された生存伝説は何を語るのか』
𠮷水神社公式HP
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