鎌倉殿の13人

【鎌倉殿の13人】現場の苦労も知らないで…源実朝を痛罵した歴戦の勇士・長沼宗政のエピソード

「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」

いつかどこかで聞いた名ゼリフ。現場のことは現場が一番よく分かっている……ということは世の中多いものです。

しかし偉い人は知らないがゆえに現場を理解せず、地位や権力をもって自分の価値観(理想や原則)を押し通そうとします。

そんな上長の理不尽を呑み込むのが社会人……とは思いながら、ついブチ切れてしまった方もいるのではないでしょうか。

今回は源家三代(頼朝・頼家・実朝)に仕えた歴戦の勇士・長沼宗政(ながぬま むねまさ。五郎)のエピソードを紹介。

鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)に仕えていたころのお話しです。

「畠山重慶を生け捕るべし」悦び勇んだ宗政は……

建暦三年九月大十九日丙辰。未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚窂人。又祈祷有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等竸争。依之鎌倉中聊騒動云々。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月19日条

時は建暦3年(1213年)9月19日。日光山輪王寺(栃木県日光市)の大夫阿闍梨重慶(たいふあじゃり ちょうけい。畠山重慶)が浪人らを集めて鎌倉調伏の祈祷を行い、謀叛を企んでいるとの情報が入りました。

重慶は元久2年(1205年)に冤罪で粛清された畠山重忠(はたけやま しげただ)の末子。当時はまだ幼かったため、出家を条件に助命されていたようです。

畠山重忠の最期。月岡芳年筆

「事の真偽を確かめる。五郎よ、阿闍梨を召し捕らえて参れ」

「よぅし、待ってました!」

実朝の命を受けた宗政は、久しぶりの活躍チャンスに喜び勇んで家にも帰らず、御所を退出するなりまっすぐ日光山へと向かったとか。

「五郎殿、戦さの支度はいかがなされる!」

「せめて兵を集めましょうぞ!」

「要らねぇ、今おる者だけついて参れ!」

その場にいたのは、家子(いえのこ。親族の家来)1名と雑色8名のみ。家で帰りを待っていた一族郎党が大挙してその後を追ったため、鎌倉じゅうが一時騒然となったそうです。

冗談じゃねぇ!言うも言ったり悪口雑言

「御所(将軍)、ただいま戻りやした!」

出発から一週間が過ぎた9月26日の夜になって、宗政が鎌倉へ凱旋しました。

「ご苦ろ……えぇっ!?」

実朝が驚いたのも無理はありません。何と宗政が持っていたのは首桶。中にはもちろん?重慶の首級が収まっています。

何と言うことを……実朝は宗政を痛罵したとか。

畠山次郎は罪なくして討たれたのだから、その息子が謀叛を企むのは無理からぬことではないか。だから取り調べの上で説諭すべく生け捕れと命じたのに、軽はずみに殺して罪業を重ねるとは!」

その言葉を聞いた宗政は、ついカッとなって言い返します。

「現場の苦労も知らないくせに……!」怒りに燃える宗政(イメージ)

「ケッ……ま~たキレイゴトを。どうせそう言うと思ったぜ!確かに生け捕るのは簡単だったさ。だが連行して来りゃあ、左右の取り巻き女どもが『かわいそ~、ねぇ許してあげて~』とかお願いして、許しちまうんだろ?それが気に入らねぇからブッ殺してやったのさ。
(中略・頼朝時代の自慢話)
まったくやってらンねぇよ。こちとら現場で命のやりとりしてンだぜ?で血塗れンなって帰って来りゃア、御所じゃやれ和歌だの蹴鞠だの、それで鎌倉が守れンのかよオイ!
御恩と奉公って言うけどよ。敵から奪った土地は実際戦った俺たちにはくれねぇで、ほとんどお気に入りの女どもにくれちまう……教えてくれよ、ヤツらが戦さ場で何したってンだ?この前だってあの土地はあの女、この土地はこの女にやっちまいやがってよぉ……!」

とまぁこんな調子で、言うも言ったり悪口雑言の数々。あまりにも【自主規制】な【掲載禁止】で聞くに堪えない【検閲済】だったため『吾妻鏡』にも記されなかったほどでした。

逆ギレにも程がある……とは言うものの、よほど日ごろから鬱屈した思いを溜めこんでいたのでしょうね。

終わりに

建暦三年九月大廿六日癸亥。天晴。晩景宗政自下野國參着。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖挿隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申状。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罸者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無礼之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以哥鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。

※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条

(実際には宗政と実朝の直接対話ではなく、近江前司仲兼を介してのやりとりとなります)

で、宗政は当然のごとく謹慎処分を申しつけられてしまいます。

よく殺されなかったものだと思いますが、宗政も暴言を吐くだけあって、そうなったらなったで一戦構えるだけの覚悟はしていたのでしょう。

翌閏9月16日に兄の小山左衛門尉朝政(おやま さゑもんのじょうともまさ)のとりなしで、再び出仕するようになったとか。

小山朝政。栃木県野木町公式サイトより

「まぁ、五郎の言い方ってモンもありますが、ちったぁ我ら御家人のことも顧みちゃあもらえませんかね?」

「……うむ」

実朝は「謀叛を起こす気持ちも解る」と言いましたが、それでいざ謀叛が起きた時、命がけでそれを鎮圧するのは他ならぬ御家人たちです。

女たちにいい顔したいからと言って、その尻拭いをさせられる身にもなって欲しい……武士には武士の価値観があり、その棟梁たる鎌倉殿には、それをご理解いただかなくては困ります。

頼朝亡き後、和歌に蹴鞠に京都志向・文弱方面へと流れつつあった鎌倉殿。しかし彼を支えるのは、御家人たちの武に他なりません。

平和と典雅を愛するのはすばらしいことですが、それが何によって支えられてきた(そして支えられている)のか、現代日本にも通じるものを感じます。

※参考文献:

  • 関幸彦ら編『吾妻鏡必携』吉川弘文館、2008年9月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

・他の鎌倉殿の13人の記事一覧

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 5月 19日 7:15pm

    将軍の命令を無視しといて勝手に首はねてきたのを怒られてるのに、ツッコみ所満載の罵倒するとか。頼朝だったらその場で斬首でもおかしくない規律違反行為であるにも関わらず、なぜか実朝の方が貶められる不思議な話である。

    4
    2
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【鎌倉殿の13人】幕命よりも身内の絆…宇都宮頼綱を守った小山朝政…
  2. 【鎌倉殿の13人】謀略によって粛清された若き英雄・畠山重保の悲劇…
  3. 親の仇はかく討つぞ…寛一郎が演じる「運命の子」公暁の生涯【鎌倉殿…
  4. 【鎌倉殿の13人】どうか花押を!ハレの舞台で駄々をこねた千葉常胤…
  5. 【マニア向け】大庭景親(國村隼)の兄・大庭景義が懐島権守となった…
  6. 鎧なしで敵前上陸!源頼朝が「日本無双の弓取り」と称賛した下河辺行…
  7. 梶原景時の活躍を描いた「梶原平三誉石切」石を両断した天下の名刀……
  8. 【鎌倉殿の13人】得体が知れない?大野泰広が演じる足立遠元の生涯…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

NASAが警戒する危険な小惑星5選 「地球に衝突する可能性はどれくらいか?」

地球は過去に幾度となく、小惑星や隕石、彗星などに衝突され、生物絶滅の危機にさらされてきた。こ…

コレステロールをやっつける!フィトステロールの底力 「見逃されている栄養素」

見逃されている栄養素 フィトステロール皆さんはフィトステロールという栄養素を聞いたことがあるだろ…

戦艦の歴史を変えた弩級艦・ドレッドノート

戦艦ドレッドノートドレッドノート(Dreadnought)は1906年12月に就役したイ…

独裁政治家5代執権・北条時頼は意外に善政を為した?

5代執権・北条時頼とは?北条時頼(ほうじょうときより)は、3代執権・北条泰時の孫にあたる…

蜂谷頼隆 ~織田家の天下布武を支えた知られざる武将

信長の黒母衣衆 蜂谷頼隆蜂屋頼隆(はちやよりたか)は織田信長、その没後は豊臣秀吉に仕えた…

アーカイブ

PAGE TOP