北条泰時(演:坂口健太郎)の愛妻として活躍する初(演:福地桃子。矢部禅尼)。父親・三浦義村(演:山本耕史)の娘らしくクールな態度と巧みな機転で直情径行な夫を支える姿が劇中で描かれています。
ところで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場しているのは彼女だけなので一人娘みたいなイメージですが、義村には沢山の息子や娘たちがいました。
今回は江戸時代に編纂された系図集『系図纂要』より、三浦義村の子供たちを一挙に紹介。全員が登場しなくても、三浦一族の背景を知ることで大河ドラマをより深く楽しめることでしょう。
目次
長男・三浦朝村(ともむら)
生年不詳~宝治元年(1247年)6月5日没
通称:駿河小太郎
官職:兵衛尉
『系図纂要』によるコメントは以下の通り。
駿河小太郎兵衛尉
同泰村自殺
駿河とは父・義村が駿河守であったことから、小太郎は誰(太郎)に対して小太郎なのでしょうか。長男だったようですが、側室の子だったためか家督は弟の三浦泰村が継承しています。
元服して名乗った朝村の「朝」は、時の鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)から賜ったもの。
長男でありながら弟たちのようにあまり武勇に優れたエピソードはなく、目立たない存在だったようです。
宝治元年(1247年)第5代執権・北条時頼(ときより)との抗争(宝治合戦)に敗れて「泰村と同じく自殺(従属的な立場であることを示す)」しました。
次男・三浦泰村(やすむら)
元暦元年(1184年)生~宝治元年(1247年)6月5日没
通称:駿河二郎
官職:若狭守
生年については異説があり、『承久記』によれば承久3年(1221年)の時点で「生年18歳」と名乗っていることから、その場合は元久元年(1204年)生まれに。
宝治合戦で死亡した次男の三浦景泰(かげやす)が13歳(文暦2・1235年生)なので、『承久記』説(親子の年齢差が31歳)の方がより説得力を感じられます。
※晩年に生まれた子供である可能性もありますが。
元服して名乗った泰村の「泰」は、北条泰時から頂いたものと言います。
武勇にすぐれ、承久の乱で活躍するなど義村の跡を継いで三浦一族を率いましたが、やがて執権・北条氏との対立が深刻化。
泰村自身は北条との融和を図るも、一族の対決姿勢を抑えきれず、安達景盛(演:新名基浩)らの挑発によって戦闘が勃発(宝治合戦)。
善戦するも虚しく、一族ことごとく頼朝法華堂において自刃して果てたのでした。享年64歳(『承久記』によれば44歳)。
三男・三浦光村(みつむら)
元久2年(1205年)生~宝治元年(1247年)6月5日没
通称:駿河三郎
官職:能登守
幼名は駒若丸。仏門に帰依していた公暁(演:寛一郎)の乳兄弟であり弟弟子として彼を慕っていたと言います。
元服の際に名乗った光村の光は、反得宗家(≒北条本家)の筆頭格であった名越光時(なごえ みつとき。義時の孫)から頂戴しました。
そんな光時と思いを同じくしたかのように、反執権派(鎌倉殿に政治の実権を取り戻そうと画策する勢力)の急先鋒として頭角を現した光村は、弱腰な兄・泰村に代わって三浦一族に影響を及ぼします。
しかし北条との決戦に敗れて自害。最期に臨んで、敵に自分の死に顔を晒すまいと自ら顔面をズタズタに斬り裂いたのでした。
四男・三浦家村(いえむら)
生没年不詳
通称:駿河四郎
官職:式部丞
普段はノリがよいパリピ気質(第4代鎌倉殿・藤原頼経の夜遊びにつき合ったり、隠し芸大会に出場したり等)でしたが、キレると何をしでかすか分からない凶暴さも併せ持っていました(小山一族と合戦を起こしかけたことも)。
また仁治2年(1241年)に式部丞の辞令書が届くと、嬉しくてみんなに見せびらかすなど、憎めない人物像が目に浮かびます。
そんな家村は宝治合戦に敗れた際、家名を受け継ぐために鎌倉を脱出。三河国(現:愛知県東部)へ流れ着いてその子孫は明治維新まで存続しました。
五男・三浦資村(すけむら)
生年不詳~宝治元年(1247年)6月5日没
通称:駿河五郎
官職:左衛門尉
『系図纂要』ではただ一言「同泰村死(泰村と同じく死んだ)」とのみ。
ところで三浦兄弟の官職について、正室の子である泰村・光村はそれぞれ国司(若狭守、能登守。五位相当)となっているのに対して、他の兄弟は兵衛尉や左衛門尉・式部丞など比較的低め(六位相当)の官職に。
このことから正室の子は国司、側室の子は六位各職に任じられたものと考えられます。
六男・三浦長村(ながむら)
生没年不詳
通称:駿河六郎
官職:左衛門尉
『吾妻鏡』では宝治合戦における戦死者リストの中に名前が入っていません。それ以前に亡くなったのでしょうか。
七男・三浦重村(しげむら)
生年不詳~宝治元年(1247年)6月5日没
通称:駿河七郎、九郎
官職:左衛門尉
『吾妻鏡』では九郎(同九郎重村。特に官職なし)となっています。宝治合戦で兄たちと共に討死しました。
八男・三浦胤村(たねむら)
嘉禄元年(1225年)生~永仁5年(1297年)没
通称:駿河八郎
官職:左衛門尉
宝治合戦に際しては奥州におり、捕らわれて鎌倉へ連行されたものの叛乱とは無関係として助命されます。
その後出家して親鸞(しんらん)の弟子となり、明空房(みょうくうぼう)と改名。常陸国下妻(現:茨城県下妻市)に光明寺を開基、子孫は徳川将軍家の旗本になる(駿河三浦氏)など命脈を保ちました。
長女・矢部禅尼(初)
文治3年(1187年)生~建長8年(1256年)4月10日没
建久5年(1194年)に元服した泰時と婚約、建仁2年(1202年)に結婚。建仁3年(1203年)には長男の北条時氏(ときうじ)を出産しますが、後に離別しています(理由は不明、夫婦仲は悪くなかったとのこと)。
やがて三浦一族の佐原盛連(さはら もりつら。義村の従弟)と再婚して蘆名光盛(あしな みつもり)・加納盛時(かのう もりとき)・新宮時連(しんぐう ときつら)を出産しました。
天福元年(1233年)に夫が先立つと出家して三浦郡矢部郷(現:神奈川県横須賀市)に隠棲したため矢部禅尼(やべのぜんに)と呼ばれます。
宝治合戦において彼女の息子たちは北条方について戦ったため、三浦一族の滅亡後は盛時に三浦家を再興させることを許されました。
次女・小笠原太郎(おがさわら たろう)室
生没年不詳
『系図纂要』では「小笠原太郎室」とのみ。この小笠原太郎とは、小笠原弥太郎長経(演:西村成忠。第2代鎌倉殿・源頼家の側近)のことでしょうか。その詳細は不明のままです。
三女・毛利季光(もうり すえみつ)室
生没年不詳
毛利季光は大江広元(演:栗原英雄)の子で、出家して入道西阿(せいあ)と号します。
宝治合戦に際して「どう考えても執権殿に味方すべき」と判断する夫を「(妻の実家を見捨てるなんて)それでも武士ですか!」と引き留めました。
これによって季光は三浦に味方し、滅び去っていきました。夫の後を追って自害したか、あるいは出家して菩提を弔ったかは定かならぬところです。
四女・上総介秀胤(かずさのすけ ひでたね)室
生没年不詳
上総介秀胤(千葉秀胤)もまた三浦一族と与同しており、宝治合戦に際しては本拠地の上総国一宮大柳(現:千葉県長生郡睦沢町)にいました。
宝治元年(1247年)6月7日に北条方の襲撃を受け、秀胤は火を放って自害します。
妻がどのような最期を遂げたかは判っていません。
五女・中納言親秀(ちゅうなごん ちかひで)室
生没年不詳
この中納言親秀なる人物について調べたところ、大友親秀(おおとも ちかひで)ではないかと推測。しかし彼が中納言となった記録はなく、確証はもてません。
『系図纂要』ではただ「中納言親秀乃室」とのみ。今後の究明が俟たれます。
六女・律ノ尼(りつのあま)
生没年不詳
完全に謎の人物。『系図纂要』のコメントも「律ノ尼」のみで、結婚したかどうかも不明です。
その通称から察するところ律宗(りっしゅう。戒律の研究と実践を重んじる仏教の宗派)に帰依したものと思われます。
九男・良賢(りょうけん)
生没年不詳
通称:大夫律師
弘長元年(1261年)6月22日、謀叛を企んでいたため鎌倉亀谷石切谷(現:鎌倉市扇ガ谷)で捕らわれました。
共犯として駿河八郎入道(※先ほど登場した三浦胤村と紛らわしいが、こちらは家村の子)や根本尼(ねもとのあま。泰村の娘)、そして末弟の三浦重時(しげとき)も生け捕られます。
これによって鎌倉じゅうが大騒ぎとなり、近国の御家人たちが「いざ鎌倉」とばかり駆けつけました(こっちの方が、よほど騒ぎの原因では)。
事件については京都の六波羅に報告され、波紋が広がらぬ(大したことではないので騒がない)ようお触れが出されます。
果たして謀叛の処分がどうなったのかについては不明。穏便に済んで欲しいところです。
十男・三浦重時(しげとき)
生没年不詳
通称:九郎
官職:特になし
『系図纂要』のコメントは「九郎 同日生虜(意:通称は九郎、兄・良賢と同じ日に生け捕られる)」のみ。
十男だけど九郎。恐らく良賢は元服前に出家しており、カウントを飛ばされたものと考えられます。
終わりに・平六殿の16人
以上、三浦義村の子供たち16人を一挙に紹介しました。息子が10人、娘が6人……まさに「平六殿の16人」と言ったところでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこの内何人が登場してくれるのか、楽しみにしています。
たぶん三浦光村は公暁との関係があるから登場するんじゃないかと筆者の予想。
【鎌倉殿の13人・登場予想】
※凡例:◎……十中八九出て来るはず!/△……出て来る、かな?/×……まず出て来ない、見かけたら多分ラッキー!
長男・三浦朝村……×
次男・三浦泰村……△
三男・三浦光村……◎
四男・三浦家村……×
五男・三浦資村……×
六男・三浦長村……×
七男・三浦重村……×
八男・三浦胤村……×
長女・初(矢部禅尼)……既に登場
次女・小笠原太郎室……×
三女・毛利季光室……×
四女・上総介秀胤室……×
五女・中納言親秀室……×
六女・律ノ尼……×
九男・良賢……×
十男・三浦重時……×
まぁ大体こうなるでしょうが、もしかしたら三浦一族の子供たちがわっと固まって出てくるかも知れません。
そんな時、大きい順に「これが朝村かな、こっちは泰村かも……」なんて想像してみると楽しいですよ!
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要 四十八 平氏三』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 佐藤和彦ら編『吾妻鏡事典』東京堂出版、2007年8月
- 高橋慎一朗『人物叢書 北条時頼』吉川弘文館、2013年7月
- 髙橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1990年9月
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