室町時代

わかりにくい応仁の乱の全体像【政治制度が変わった】

応仁元年1月に細川勝元陣営の畠山政長山名宗全陣営の畠山義就の両軍が京都の上御霊(かみごりょう)神社で激突し、応仁の乱は幕を開けた。

この戦いが日本史のターニングポイントだったのは確かである。これまでの通説によると、応仁の乱が勃発した背景として「将軍家・守護家の家督騒動」や「新興勢力の台頭」が挙げられている。

むろん、それらは原因のひとつとして評価されるが、一方で乱が勃発するまでの「政治制度の変質」を無視してはならないだろう。

守護の台頭

応仁の乱
【※足利将軍家の邸宅・花の御所(室町殿)】

将軍家や守護家の権力の変質は、新たな台頭を許し、旧勢力の没落をもたらした。家督騒動に加え、過去の様々な矛盾の積み重ねが、乱を生み出したといえる。

室町幕府は、基本的に守護家に支えられる政権だった。各国の支配は守護に任され、関東には鎌倉府を置いて支配の拠点とした。将軍は各国の守護の任免権を掌握していたが、おおむね15世紀に入ると、守護職は世襲されるようになる。これはつまり、各国の守護の権力が相対的に上昇したことを意味する。

各地の守護は一部の地域を除き、在京義務を課された。在京した守護は将軍を支えるべく幕政に参画したのである。その中心にあったのは三管領(さんかんれい)の斯波、畠山、細川と、四職(ししき)の赤松、一色、京極、山名という有力守護家だった。そして、在京する守護の代わりに、それぞれの国の実質的な支配を任されたのは守護代である。

将軍家の分裂

応仁の乱
【※8代将軍・足利義政】

やがて守護代は現地にいる利点を活かし、領国に権力を浸透させるようになった。

同時に守護膝下の有力被官は幕府の要職に就き、積極的に幕政に参与した。赤松氏配下の浦上氏、土岐氏配下の斎藤氏、京極氏配下の多賀氏らが代表で、守護をしのぐ権勢を持つようになる。6代将軍・足利義教(よしのり)が守護家の家督問題に介入したのは将軍の専制権力復活を企画したものであったが、守護家は介入を容易に許さずに問題は複雑化していった。

将軍家でも同じで、8代将軍・義政は義視(よしみ)を後継者に指名するが、実子・義尚(よしひさ)を支持するグループと対立する。こうして将軍家も分裂したが、幕府は直属の軍隊を持たず、奉公衆は存在したものの大規模なものではないために守護の軍事力に頼らざるを得なかった。また、家督問題を抱える守護は、自身を支持する陣営に与した。こうした将軍家、守護家の構造的矛盾が蓄積して起こったのが「応仁の乱」であり、旧勢力が完全に疲弊し、守護代らの新興勢力の台頭を許したのである。

彼らは、これまでの幕府の枠組みを越え、その存在は自らの力量で支配を展開する権力体の誕生でもあったのだ。

乱の長期化

応仁の乱
[画像.応仁の乱]

応仁の乱は11年も続き、京都で始まった戦乱は各地へ広がった。文明5年(1473年)に西軍のリーダー・山名宗全、東軍のリーダー・細川勝元が相次いで亡くなったが、戦いは容易には終結せず、戦闘は続いた。むろん、戦いが長期化したのにはわけがある。

戦いが地方へと広がったのは、文明元年以降のことである。同年、九州では大友氏、少弐(しょうに)氏が東軍に与し、西軍の大内氏の領国である筑前に侵攻した。ほぼ同じころ、備後、安芸、越前などの東西両軍が接する地域で、次々と戦闘が開始されてゆく。これは、東軍の細川勝元による後方撹乱の戦術であるが、ひとつの戦いが新たな戦いを生み、だんだんと収拾がつかなくなり、乱が長期化する遠因となったのだ。

2つ目は戦いの終結によるデメリットだ。赤松氏は、嘉吉(かきつ)元年(1441年)の嘉吉の乱で失った旧領国の播磨・備前・美作(みまさか)を山名氏から力づくで奪い返した。しかし、将軍から3ヶ国守護職の補佐を受けた形跡はない。つまり、いったん戦いが終わってしまうと、赤松氏がせっかく自力で獲得した播磨など3ヶ国の領土問題が浮上する可能性がある。それゆえ赤松氏は戦わざるを得ない状況となり、それは家督問題を抱える守護家も同じだった。

終結へ


【※応仁元年(1467年)の勢力図 水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲。このように当時としては全国といえる規模で乱が拡大した】

問題だったのは、応仁の乱自体が史上最大の私戦であり、朝廷が綸旨(天皇の命令を記した文書)を発給するなどして、停戦を命じるような余地がなかったことだ。

将軍・義政は文明5年(1473年)に将軍の地位を義尚に譲ったものの、積極的に停戦命令を下す様子はなかった。家督や領土問題が解決しないまま、後方撹乱によって戦線は広がり、解決の糸口が見えないまま放置されたのが実情だった。

文明9年(1477年)、畠山義就が河内に、大内政弘が周防に引き揚げるが、それが契機となり、守護はそれぞれの領国へ引き揚げるのである。しかし、その結果、京都だけでも上京の約3分の1が焼け落ち、寺社や公家、武家の邸宅は軒並み焼失した。これが、応仁の乱のあらましである。

最後に

この乱により、続く戦国時代が始まったといってもいい。この戦いを目の当たりにした伊勢新九郎は「北条早雲」を名乗り、戦国時代初の大名となって関東を中心にその勢力を広げていった。そして、幕府の権力は各国の大名たちに実質的な影響を与えるこことができないほど弱体化していったのだ。

関連記事:応仁の乱
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