十一ヶ国の太守
尼子経久(あまごつねひさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・大名です。
代々出雲の守護代を務めた家柄の尼子氏を有力な戦国大名に押し上げたことから、下克上を成し遂げた人物として北条早雲と並び称されている武将です。
経久は支配下に置いた国の数から十一ヶ国の太守とも言われ、広く中国地方に勢力を及ぼす存在となりました。
如何にして経久は下克上を成し遂げたのか、調べてみました。
主家・幕府への反抗と追放
尼子経久は長禄2年(1458年)に出雲守護代を務めた尼子清定の嫡男として生まれました。
尼子氏は、室町幕府の要職を占めた京極氏の流れを汲む家系であり、以前から出雲の守護代に任じらていました。
経久は、主君であった京極政経から「経」の一文字を拝領して「経久」を名乗り、文明10年(1478年)頃に家督を継いで尼子家当主になったとされています。
経久が当となった当時は、応仁の乱から11年が経過しており幕府の権威が弱まりつつあった時代でした。このため経久も主家・京極氏や幕府を無視した政策を行いましたが、文明16年(1484年)に居城であった月山富田城を攻められ、一旦出雲守護代を追放されることになりました。
出雲支配を周辺国への進出
経久はその16年後の明応9年(1500年)に主君・政経と和睦すると、再び出雲守護代の地位に就きました。さらに永正5年(1508年)に京極政経が没したことで、経久が事実上の出雲の支配権を手にすることになりました。
その後 経久は周防を基盤としていた大内氏と協調路線を歩みつつ、出雲の周辺国の石見・備後・伯耆への侵攻を果たして支配地域を拡大していきました。
そして永正14年(1517年)頃になると山名氏と組んで石見の大内方の城を攻め、ここに大内氏との対決姿勢を鮮明にしていくことになりました。
伯耆の支配と毛利氏の離反
経久は自らの三男・興久を出雲の西部を基盤としていた塩冶氏の養子にし、これによって出雲の西部も支配下に置くと、その後 備後や安芸への侵攻を行いました。
更に 大永3年(1523年)、大内義興が九州に出陣した間隙を縫って安芸の鏡山城攻略の兵を挙げました。
このときの合戦においては、傘下にあった毛利元就の調略によって大内勢の城を落城させています。
経久は翌大永4年(1524年)に伯耆国(ほうきのくに)の大半を支配下に置くことに成功しましが、大永5年(1525年)になると不利な状況に陥りました。さらに同年に毛利氏が離反し大内方に付いたことでこの流れは加速し、山名氏との対立関係も表面化しました。
続く大永7年(1527年)、大内勢が備後に侵攻したため経久も兵を出しましたが、この時の合戦にも尼子勢は敗北し、備後の国人のほとんどが大内勢に付くという状況に陥りました。
尼子氏の隆盛
更に享禄3年(1530年)、三男の興久が出雲の内外の敵対勢力と結んで経久への謀反に及びました。この反乱の理由は定かではありませんが、経久は何とかこれを天文3年(1534年)までに抑え込むことに成功しました。
経久はその3年後の天文6年(1537年)、家督を孫である詮久(尼子晴久)に譲りました。
詮久は東西方向に尼子氏の支配地を拡大すると、以後は石見銀山の保全を優先する方針を執り、むやみな支配地の拡大を行わない事で尼子家の最大版図を築きました。この石見銀山の資金力が大きな財政基盤となり、後に隆盛を極めることになる毛利氏もこれを支配したことで中国地方に覇を唱える原動力となりました。
経久は、天文10年(1541年)に居城の月山富田城でその享年84の生涯を閉じました。
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