地獄太夫(じごくたゆう)は、室町時代に実在したといわれる遊女である。
彼女は絶世の美貌を誇りながらも、この世の無情さを憂いながら死んでいったという。
今回は「一休さん」こと稀代の破戒僧・一休宗純禅師の弟子でもあったという伝説の美女、地獄太夫について詳しく解説する。
地獄太夫の出自
地獄太夫の幼名は乙星といい、応仁の乱で討ち死にした梅津嘉門景春という武士の娘として生まれた。
少女時代は何不自由なく暮らしていたが、ある日京都の如意山で賊に捕らわれてしまい、そのあまりの美しさが仇となって不幸にも遊女として売られてしまう。
誇り高き武家の娘だった彼女は、苦界に落ちるという自らの不幸の原因は前世での行いが善くなかったからだと考え、自ら「地獄」という名を名乗った。
そして地獄変相が刺繍された打掛をまとい、心の中で念仏を唱えながら遊女として客をもてなしたという。
絶世の美女でありながら、その風変わりな出で立ちが人々の興味を引き、地獄太夫の噂は広まっていった。
一休禅師との歌問答
ある時、地獄太夫は花街がある泉州堺に出てきた一休禅師に向けて、
山居せば深山の奥に住めよかし ここは浮世のさかい近きに
(出家して俗世とは縁を切った身の上であれば、こんな煩悩にまみれた俗世になど下りず、山奥の寺にこもって修行しているべきでしょう。)
と和歌を送った。
この歌に対して一休は、
一休が 身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ
(自分はこの身を何者とも思っていないのだから、何処にいようが同じことだ)
と返した。
一休は地獄太夫の噂を耳にして堺に赴いたわけだが、自分に対しての暴言とも取れる巧みな歌を詠んだ遊女が地獄太夫その人だということを知って、さらに
聞きしより見て恐ろしき地獄かな
(実際に見てみると噂に聞いていたよりも美しく、肝の据わった大した女だ)
と詠い、彼女の才能や美貌を称賛した。
それに対し、地獄太夫はさらに
しにくる人のおちざるはなし
(死んだ人が皆地獄に落ちるように、ここに女遊びに来る男は皆私に落ちるのだから、あなたもそのつもりなら覚悟をしなさい)
と、下の句を送ったという。
このやりとりをきっかけに、地獄太夫は破天荒な破戒僧として知られた一休と意気投合し、師弟関係を結んだといわれている。
地獄太夫と一休の逸話
師匠と弟子という関係になった2人の逸話を紹介しよう。
一休は室町時代の当時から肉食や女と交わることも厭わない風変わりな破戒僧として知られており、人々が皆こぞってめでたいと喜ぶ正月には、杖の先に人の頭蓋骨を刺して「ご用心、ご用心」と叫びながら市街を練り歩いた。
一休のこの行動は、
「皆は正月をめでたいと言うが、正月を迎える度に1つ年を取るのだから(昔の日本は誰しもが正月に1歳年を取る数え年という方法で年齢を数えた)また1つ死に近づいたのだ」
という考えの元に行われたというが、その死生観を詠った「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という狂歌は、地獄太夫に向けて詠ったものだといわれている。
また、地獄太夫が自分の身の上を憂いて「出家して仏に仕えることができれば救いがあるものを」と嘆いた時には、一休が「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる(自らの体を売って人々の煩悩を癒すあなたは不真面目な僧侶よりも功徳を積んでいる)」と慰めた。
地獄太夫は若くして病死するが、それを看取った一休に
我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ
(私が死んだら遺体を焼いたり埋めたりせずに野原に捨てて、飢えた犬の餌にしてほしい)
という辞世の句を残したという。
地獄太夫と日本の文化
地獄太夫は実在していたといわれてはいるが、実はその根拠は乏しい。
現在まで残っている地獄太夫の姿絵は江戸時代以降に描かれたものしかなく、地獄太夫について書かれた文献でも、一休主体の逸話に出てくる登場人物の1人といった扱いだ。
地獄太夫の生没年は不詳で、一休は1394年生まれで1481年に亡くなったとされる。地獄太夫が一休と出会った時期が一休が悟りを得た後の1420年以降と仮定すると、約600年も昔の遊女の存在を決定づける証拠は何も残っていないのだ。
しかし、「奇抜な衣装を身にまとい憂いを抱えたミステリアスな美女」という鮮烈なイメージが多くの浮世絵作家の感性を刺激したようで、美人画のモチーフとして好まれ多くの作品が描かれた。
さらには浮世絵だけでなく、歌舞伎や浄瑠璃の演目としても人気を博し、刺青の絵柄としても好まれた。
明治時代にはまるで地獄太夫があの世から蘇り再来したかのような、幻太夫という遊女まで現われる。幻太夫は地獄太夫を彷彿とさせる百鬼夜行図や髑髏が描かれた着物をまとい、部屋には仏像を祀り念仏を唱えながら客を迎えたという。
幕末から明治に活躍し、地獄太夫を好んで描いた浮世絵師・月岡芳年が幻太夫を気に入り、遊郭に足繫く通っていたことは確かなようだ。
地獄太夫は現代でもイラストやコスプレの題材として愛されるモチーフである。豪華絢爛な世界で絶望と悲哀を抱えながら男たちを癒した絶世の美女は、いつの時代も人々の心を強烈に魅了してやまない存在なのだ。
参考文献
人文社編集部『諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 西日本編』
上村行彰 『日本遊里史』
『一休関東咄』
『浮世絵志』第14号「芳年と幻太夫(上)」大曲駒村
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