室町時代(1336年~1573年)は、足利将軍家によって統治された時代で、その中で育まれた文化を総称して室町文化と呼ぶ。
この時代には、二つの特徴的な文化が発展した。
第3代将軍足利義満が建てた金閣寺に代表される、14世紀後半から15世紀前半の文化は「北山文化」と呼ばれ、第8代将軍足利義政が建てた銀閣寺に代表される15世紀後半の文化は「東山文化」と呼ばれる。
今回は、これらの北山文化と東山文化について詳しくご紹介する。
北山文化と東山文化の違い
北山文化と東山文化は、共に中国から伝わった禅宗の影響を受けた日本の文化である。禅宗は鎌倉時代に日本に伝来し、武士や庶民の間で広まり、日本の仏教の一翼を担うに至った。その結果、多くの禅寺が各地に建立されるようになった。
北山文化は、禅宗の影響に加えて、貴族や上級官人である公家と武士が享受した文化が融合し、洗練された華やかな特徴を備えている。
一方、東山文化は北山文化を継承しつつ、禅宗の影響をより強く受けており、簡素でありながら上品で深遠な文化が特徴とされる。
特に「わび・さび」の精神が重んじられ、庶民にも広く受け入れられた。
この流れにより、茶道、庭園芸術、花道などの芸術文化が著しく発展し、日本の伝統文化の礎を築いた。
北山文化について
前述した通り、北山文化は武家の文化と公家の文化が合わさっているため、建築物が華やかなのが特徴的である。
代表的な建築物は『金閣寺』で、正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)である。
金閣寺は、金箔で覆われた美しい外観が特徴で、もともと鎌倉時代の貴族である藤原公経の別荘として建てられた。後に室町幕府三代将軍足利義満によって改築と新築が行われ、山荘として整備された。
金閣を中心とした庭園や建築は、極楽浄土を地上に表現したとされ、かつては天皇の招聘や中国との貿易の中心地としても栄えた。義満の死後、彼の遺言により鹿苑寺は寺院としての地位を確立した。
芸能面では、能面をつけた役者たちが音楽に合わせて舞う能や、大名や僧侶を風刺する狂言などが盛んに行われ、当時の権力者たちや一般の人々に愛された。これらの芸能文化がもたらす華やかさと伝統の息吹が、時代の賑わいを物語る。
文学面では、北山文化を代表する文学の一つとして「五山文学」が挙げられる。
南禅寺、相国寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺といった五つの禅宗寺院が、幕府の保護を受けながら漢文学や漢詩の創作を行い、禅の思想と文学的表現が融合した詩文、日記、論説などが繁栄したのである。
東山文化について
北山文化が庶民にも浸透したことで、より簡素で洗練された東山文化へと変化した。「わび・さび」は、日本の美意識を表す概念であり、この言葉に通じる美意識が浸透したのもこの時代の特徴である。
銀閣寺は東山文化の代表作で、正式名称は慈照寺(じしょうじ)である。
二層構造になっており、大一層の書院造は床の間やふすま・障子が使用されており、現代の日本の住宅建築のもとになっている。
室町幕府8代将軍足利義政が、将軍職を子に譲った後に造営を始め、ここで隠棲生活を送り書画や茶の湯を親しんだという。
義政は日々の争いごとに飽き飽きしており、ここで趣味に没頭しながら芸術家や文化人を保護し、支援を行った。
今日の日本文化がこれほどまでに発展したのは、義政の影響が非常に大きいとされている。
日本の庭園は自然を象徴的に表現し、この時代に登場した「枯山水」はその極致とされる。
庭園では砂を海、石を滝と見立てて、幽玄美や空白美を通じて深い世界観を表現する。特に空白の地面は広い空間を演出する重要な役割を果たし、枯山水の特徴として形成される。
絵画面では、京都五山の相国寺が水墨画家を多く輩出し、雪舟の秋冬山水図や天橋立図などは有名である。
また、武士階級に広まっていた茶道が庶民にも好まれ、中国の茶器「唐物」も流行した。
日本発祥の華道も、この時代に京都六角堂の僧侶によって確立されていった。
最後に
北山文化と東山文化を探求することは、京都の豊かな歴史と文化を深く理解する手助けとなる。
これらの文化はそれぞれ異なる時代背景と美意識を反映しており、金閣寺や銀閣寺といった象徴的な建築物にその特徴が見られる。
この二つの文化を学ぶことで、京都の美しい風景や深い思想に触れる貴重な機会を得ることができるだろう。
参考 : 『日本思想全史』清水正之
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