奈良時代

「争乱だらけだった奈良時代」藤原広嗣と橘奈良麻呂はなぜ乱を起こしたのか?

画像 : 平城京宮跡 イメージ

奈良時代(710~794年)は、律令国家の体制が確立し、唐の制度や文化を積極的に取り入れた成熟期であった。

平城京には東大寺や興福寺、春日大社など壮麗な伽藍が立ち並び、仏教を中心とした国際的な文化が花開いた。

だが奈良時代の実態は、そうした華やかなイメージと全く異なり、全時代を通じて天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が繰り返された時代だった。

今回は、藤原不比等の子・藤原四子亡き後に起きた「藤原広嗣の乱」と「橘奈良麻呂の変」を考察していこう。

藤原氏の復権を意図して起きた「藤原広嗣の乱」

737年、長屋王とその一族を滅ぼした藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が、天然痘のため相次いで死去した。

このとき、四子の子どもたちはいずれも若く、政権に参加していたのは武智麻呂の長子・豊成(参議)のみであった。

そこで朝廷の政権運営は、敏達天皇の子孫である橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当することとなった。

画像 : 橘諸兄(たちばなのもろえ)『前賢故実』より public domain

橘諸兄は、異父姉妹である光明皇后と協力しつつ、藤原四子の政策を引き継いでいった。

しかし藤原氏の勢力は、四子健在の時代と比べると衰退していた。

そのような中、諸兄が重用する玄昉・吉備真備の排除を訴え、宇合の長子・広嗣(ひろつぐ)が、740年に赴任先の九州・太宰府で反乱を起こした。

これが「藤原広嗣の乱」である。

画像:藤原広嗣 public domain

しかし、この反乱は朝廷軍によってほどなく鎮圧され、広嗣は弟の綱手や配下たちとともに九州で斬首された。

乱は鎮圧されたものの、聖武天皇にとって皇后の実家である藤原氏から反乱が起きたことは大きな衝撃であった。

このため、聖武天皇は乱の最中にもかかわらず平城京を脱出し、恭仁宮・紫香楽宮・難波宮などへと都を転々とすることになった。

権力を拡大する藤原仲麻呂と、それに反発する貴族たち

画像:藤原仲麻呂イメージ(日本服飾史)

藤原広嗣の乱の後、朝廷では藤原武智麻呂の次男・仲麻呂が台頭してきた。

そして749年、聖武天皇と光明皇后の娘である阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、その勢いは急速に伸び、新たに設けられた紫微中台(しびちゅうだい)の長官に就任した。

紫微中台とは、唐の中書省を範とした新官制であり、若い孝謙天皇を後見する光明皇后が大権を振るうために、皇后宮の組織を改めて設置した機関である。

仲麻呂はその長官として、光明皇后および孝謙天皇を後ろ盾に権力を拡張していった。

仲麻呂は専制体制を築くべく、右大臣・橘諸兄を引退に追い込む。

756年、聖武天皇が崩御した際に皇太子に指名された道祖王(ふなどおう : 天武天皇皇子・新田部親王の子)を、わずか1年足らずで素行不良として廃した。

そして、道祖王の代わりに大炊王(おおいおう : 天武天皇皇子・舎人親王の子)を皇太子に立てた。

大炊王は仲麻呂の長男(早世)の未亡人を妻とし、仲麻呂の屋敷に住むなど、仲麻呂と親密な関係にあった。

このような仲麻呂の動きに対して、諸兄の子である参議・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は757年にクーデターを企てた。

これが「橘奈良麻呂の変」である。

奈良麻呂は、ヤマト政権以来、武力で朝廷を支えてきた大伴氏・佐伯氏を中心に、仲麻呂に不満を持つ皇族たちと結び、大炊王を廃して長屋王の遺子・黄文王を立太子する計画を立てた。

しかし、この計画は密告により仲麻呂の知るところとなり、多くの首謀者や参加者たちは捕えられてしまい、黄文王をはじめ道祖王、大伴古麻呂などが、取り調べ中の激しい拷問により獄死した。

奈良麻呂の生死については定かではないが、おそらくは拷問の末に落命したと考えられている。

生き延びた者もほとんどが配流処分となったが、その中には仲麻呂の異母兄である右大臣藤原豊成も含まれており、結局この事件で処罰された者は、日本史上稀な443人に上ったという。

橘奈良麻呂の変の真相は「皇位継承者問題」にあった?

画像:橘奈良麻呂 イメージ(日本服飾史)

橘奈良麻呂の変については、藤原仲麻呂に対する単なる反対派の抵抗ではなく、皇位継承に関わる争いであり、特に孝謙天皇の即位に対する不満がこの変の中核であったと考えられてきた。

これは、事件に関与した一人として尋問を受けた佐伯全成(さえきのまたなり)が、奈良麻呂の言葉として「先帝(聖武天皇)は病状が重いにもかかわらず、まだ皇位継承者をお立てになっていない。このままでは政変が起こる恐れがある。黄文王を皇位継承者として立て、人々の望みに応えたい」と述べたことによるとされる。

しかし、奈良麻呂が全成に語った時点で、すでに阿倍内親王(後の孝謙天皇)は立太子していた。

すると、奈良麻呂の言う「まだ皇位継承者をお立てになっていない」という表現には矛盾が生じることになる。

参議として政権の中枢にいた奈良麻呂が、阿倍内親王の立太子を知らないはずはない。

ここには、阿倍内親王が即位しても未婚の女帝であるため、皇子を儲けることができないという現実があった。

画像:西大寺に伝わる孝謙天皇像 public domain

つまり、奈良麻呂の言う「皇位継承者がいない」とは、阿倍内親王の次の皇位継承者を指すものであり、次の後継者を決めておかなければ、皇位継承をめぐって政情が不安定になることを主張したのである。

聖武天皇と光明皇后は、天武天皇から草壁皇子に引き継がれた血筋にこだわった。

それが、二人の間に生まれた基王(もといおう)を、生後わずか32日で皇太子に立てるという異常な行動となって表れた。

その基王が1歳にも満たない年齢で夭折すると、もはや皇位継承者は阿倍内親王以外にいなかったのである。

奈良麻呂らのクーデター未遂の翌年、孝謙天皇は譲位し、大炊王が淳仁天皇として即位した。

そして仲麻呂は、淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、朝廷最上位の大師(太政大臣の唐名)に昇り、さらに専制政治を推し進めていくのである。

※参考文献
木本好信著 『奈良時代-律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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