第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう)との対立が影響し、明治時代まで諡号が送られなかった天皇である。
孝謙天皇から譲位を受けて即位した天皇であったが、なぜ先代天皇と仲違いし対立してしまったのだろうか?
この記事では、悲劇の天皇である淳仁天皇の生涯を見ていく。
孝謙天皇までの草壁皇子の血統
第38代天智(てんじ)天皇は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟とし、皇位継承させる予定であった。
しかし、天智天皇は晩年になると、自身の子である大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継がせたいと考えるようになる。
大海人皇子は「このままだと自身の命に危機が生じる」と考え、皇位継承を辞退して都から離れた。
こうして天智天皇の崩御後に、大友皇子が第39代弘文天皇として皇位に就いた。
しかし、ここで皇位継承をめぐって大海人皇子が兵を挙げ、壬申の乱(じんしんのらん)が勃発するのである。
弘文天皇は戦いに敗れて自害し、大海人皇子が第40代天武天皇として即位した。
天武天皇は、兄弟間の皇位継承で問題が生じた自身の経験から、皇太子を定めるとそれ以外の皇子は協力をするように道筋を作った。
皇太子には草壁皇子(くさかべのみこ)が指名されており、それ以降は草壁皇子の血統が重要視されていく。
しかし、草壁皇子は天武天皇が崩御すると、2年にも渡る葬儀期間中に病にかかり、即位する前に亡くなってしまったのである。
こうなると、皇位継承に問題が生じる。
天武天皇の皇后であった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、自身の子以外の皇子に皇位継承させたくなかったことから、草壁皇子の子に皇位継承させる方針を固めた。
しかし、草壁皇子の子である軽皇子(かるのみこ)はまだ子どもであったことから、即位の適齢期まで皇后がつなぎとして即位した。
これが第41代持統天皇である。
その後、予定どおり軽皇子が第42代文武天皇として即位したが、若くして崩御してしまう。
その後の皇位継承も文武天皇の皇子に継承することになったが、皇子である首皇子(おびとのみこ)もまだ子どもであったことから、すぐに皇位継承させることができなかった。
こうして首皇子が適齢期になるまで、文武天皇の母や姉がつなぎとして即位した。
第43代元明天皇、第44代元正天皇である。
その後、首皇子が年齢的に適齢期になり、第45代聖武天皇として即位する。
聖武天皇と光明皇后との間には皇子が生まれたものの、1歳で病没してしまった。
以降皇子が生まれなかったことから、娘の阿倍内親王(あべないしんのう)が第46代孝謙(こうけん)天皇として即位することとなる。
ここで問題となるのが、草壁皇子の男系の血筋であった。
孝謙天皇は持統天皇や元明天皇とは違い、天皇の死後に皇后が即位したわけでもなく、天皇の兄弟がつなぎで即位したわけでもない。
独身確定の女帝として即位することになるため、次の皇位継承者について問題が生じたのである。
淳仁天皇即位時の政治情勢と背景
孝謙天皇が即位した頃、朝廷は橘諸兄(たちばなのもろえ)が政治を主導していた。
しかし、そこに台頭してきたのが、藤原四兄弟の筆頭である藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)であった。
藤原仲麻呂は、叔母である光明皇后を後ろ楯とし、橘諸兄を凌ぐ権力を振りかざしはじめた。
光明皇后は親として孝謙天皇に対しても発言力を持っていたとみられ、事実上、光明皇后と藤原仲麻呂により、孝謙天皇の時代は政治が動かされていたと見られている。
そのような中、聖武天皇は病に伏せり、皇位継承問題に備えて遺言を残した。
それは、天武天皇の皇子の一人である新田部親王(にいたべしんのう)の子、道祖王(ふなどおう)に皇位を継承せよ、というものであった。
しかし道祖王は、聖武天皇の崩御後、喪中であるのにもかかわらず、女官と女遊びをしていた。
このことに孝謙天皇は激怒し、皇位を継承するには不適格ということで、道祖王の皇太子は廃止されることとなる。
この時に白羽の矢が立ったのが、天武天皇の皇子の一人であった舎人親王(とねりしんのう)の子である大炊皇子(おおいのみこ)であった。
大炊皇子の父である舎人親王は、母が天智天皇の娘であったことで、天智・天武両天皇の血筋を引く血統を持つ皇子であった。
さらに、このような血統とは別に、大炊皇子は藤原仲麻呂と深い関係のある皇族であった。
そのため藤原仲麻呂が孝謙天皇に推挙し、大炊皇子の立太子が実現したのである。
淳仁天皇と藤原仲麻呂の乱
758年、大炊皇子は、孝謙天皇から践祚(せんそ)し、第47代 淳仁(じゅんにん)天皇として即位した。(※但し淳仁の諡を賜ったのは明治時代)
即位後は、藤原仲麻呂が政治の実権を掌握し、光明皇后を後ろ盾に政治を行っていった。
淳仁天皇は仲麻呂の亡くなった長男の未亡人を妃とし、仲麻呂の私邸に身を寄せていたことから、仲麻呂とは仲が良く、むしろ仲麻呂には頭が上がらない立場であった。
そのため天皇として即位したものの、実際には仲麻呂の傀儡状態であった。
760年に光明皇太后が崩御すると、藤原仲麻呂は平城宮を改築する。
その際、淳仁天皇と孝謙太上天皇は、平城京より北にあった保良宮(ほらのみや)へ行幸していた。
そこで孝謙太上天皇は体調を崩し、病みがちになる。
ここで孝謙太上天皇を看病したのが、後に「日本三悪人」と評される僧侶・道鏡である。
孝謙太上天皇は道鏡を寵愛するようになり、その寵愛も次第と深さが増していった。
これを良しと思わなかった藤原仲麻呂は、淳仁天皇を介して諫めるのだが、これに孝謙太上天皇は激怒した。
巻き添えを食った淳仁天皇は、孝謙太上天皇と対立するようになってしまったのである。
764年、藤原仲麻呂の乱が発生する。
しかし、淳仁天皇はこの乱に加担することはなかった。
既に孝謙太上天皇側に拘束されていたのか、藤原仲麻呂を見限って孝謙太上天皇との和解を探っていたのかは不明である。
廃帝され淡路島へ
藤原仲麻呂の乱が鎮圧されてからわずか一ヶ月後、孝謙太上天皇の軍は、淳仁天皇が居住していた中宮院を取り囲んだ。
孝謙太上天皇は淳仁天皇に対し、藤原仲麻呂と関係が深かったことを理由として、天皇廃位を宣告する。
その5日後の10月14日には、淳仁天皇を親王待遇とし、淡路国(あわじのくに)に追放したのである。
淳仁天皇は廃位となり、譲位した後に追号される太上天皇という尊号も贈られることはなかった。
在位期間は6年2ヶ月であった。
孝謙天皇は、淳仁天皇の後継として重祚し、称徳(しょうとく)天皇として即位した。
朝廷では、藤原仲麻呂の乱の後だったこともあり、廃帝のもとに出向く官僚や、廃帝の復帰をたくらむ勢力もあった。
称徳天皇は、翌765年2月、淡路守に叙任していた佐伯助(さえきのたすく)に、監視を強化する勅令を出す。
そのような監視体制の中、同年10月に廃帝は逃亡を図ったが、10月22日に佐伯助らに捕えられてしまった。
そして廃帝はその翌日、病気により崩御した。
実際には暗殺されたとみられている。
廃帝は葬儀なども行われず、敵対した称徳天皇の意向により、歴代天皇として認められなかった。
そのため、「廃帝」や「淡路廃帝」と呼ばれていたのである。
時は流れ、1870年(明治3年)7月24日のこと。
廃帝は明治天皇より、これまで諡号の送られていなかった弘文天皇、仲恭天皇とともに「淳仁天皇」として諡号を賜られた。
崩御した淳仁天皇は、兵庫県南あわじ市賀集に祀られている。
国道28号線の南、淡路の玉ねぎが育てられる静かな田畑の中で、今も静かに眠られている。
参考文献
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
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