戦国時代

【武田家の秘密のために55人の遊女が転落死?】山梨の花魁淵に伝わる悲劇の伝説とは

画像:花魁淵 wiki c mapplefan8

武田信玄が統一を成し遂げた甲斐の国、つまり現在の山梨県には、今も武田家ゆかりの史跡が多く残されている。

山梨県甲州市にある「花魁淵(おいらんぶち)」もまた、武田家にまつわる伝説が残る史跡だ。

この花魁淵には、戦国時代にまつわる悲劇的な伝説が伝えられている。
それによれば、武田家の重要な秘密を知っていた、あるいは知る可能性があると疑われた55人の遊女が、武田家の家臣によって命を奪われたというのだ。

彼女たちの犠牲によって守られたとされる「秘密」とは、当時の武田軍を経済的に支えていたとされる、黒川金山に関する情報だったと伝えられている。

今回は、現在では心霊スポットとしても知られる「花魁淵」にまつわる、悲劇的な伝説の背景を、歴史的な観点から検証していきたい。

花魁淵の伝説とは

画像:甲州一分金 背重 wiki c As6022014

「花魁淵」は、山梨県甲州市塩山一之瀬高橋にある滝の通称であり、地元の人々からは「花魁淵」ではなく「銚子滝」と呼ばれている。天保時代に著された『玉川泝源日記』には五十人淵の名で記されており、五十五人淵と呼ばれることもある。

一般的には「花魁淵」という表記で浸透しているが、現地にあった立て看板には「おいらん淵」と書かれており、本来は「花魁淵」と漢字で表記されることはあまりない。

戦国時代、花魁淵と川を挟んで向かいにある鶏冠山(黒川山)には、豊富な金を産出する金鉱があった。
当時、黒川金山で働く坑夫たちが暮らしていた集落は「黒川千軒」と呼ばれてにぎわい、武田軍を資金面で支えたと伝えられている。

一時期の黒川金山の隆盛は、日々労働に勤しむ坑夫たちの慰安のための遊郭が黒川千軒に置かれるほどだったという。

画像:自刃する勝頼主従(月岡芳年画) public domain

しかし信玄が没して勝頼の時代となった後、武田軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが起きた。

武田軍はこの戦いにおいて大敗を喫し、勝頼はそれまで武田家を支えていた主要な家臣たちの多くを失ってしまった。

そしてその後に発生した甲州征伐により、追い詰められた勝頼が妻子と共に自害して武田家は滅亡してしまった。

武田家の滅亡により、隠し金山とされていた黒川金山も閉山する運びとなった。
伝承によれば、このとき金山奉行を務めていたとされる「依田 某(なにがし)」すなわち実名の伝わっていない依田姓の人物が、金山の機密が外部に漏れることを恐れ、その情報を知っている可能性のある者たちを抹殺する決断を下したという。

その無慈悲な計画の対象となったのは、金山で働いていた坑夫や下級武士たちと、遊郭で働く55人の遊女だった。

遊女55人は黒川千軒での働きの労いと称して、黒川谷を流れる丹波川上流の、柳沢川付近の渓谷で行われる酒宴に呼ばれた。

宴もたけなわとなった頃合いに、遊女たちは柳沢川の上に藤づるで吊った宴台の上で舞うように命じられる。

そして舞を披露している最中に、宴台を支える藤づるが断ち切られ、哀れな遊女たちは真下の激流に宴台もろとも沈められてしまった。

画像 : 転落する遊女イメージ 草の実堂作成(AI)

遊女たちは激流に呑まれてなす術もなく、もがき苦しみながら落命したという。

これが「花魁淵」に伝わる、悲劇の伝説のあらましである。

一説には、遊女たちが実際に落とされたのは花魁淵と呼ばれる場所よりも、さらに上流にある藤尾橋付近であるといわれている。

戦国時代~江戸時代の黒川金山の歴史

花魁淵伝説では、黒川金山は武田家の「隠し金山」として扱われているが、実際の黒川金山はどのような歴史的変遷をたどったのだろうか。

ここでは、戦国時代から江戸時代頃までの歴史に触れてみたい。

黒川金山は、15世紀までは修験者や山伏が修行する霊場とされ、小規模な砂金採掘などが行われ、信玄の時代に最盛期を迎えたと考えられていた。

画像:信玄が野田の戦で虫の音に耳を傾け、狙撃されたとする故事を描いたもの。月岡芳年筆 public domain

しかし実際には、信玄が生まれる20年ほど前の16世紀初め頃には、金採掘の専門職人集団・金山衆による本格的な採掘がすでに始まっており、近年では「黒川金山では武田家による直接的な金山経営は行われていなかった」と推測されている。

黒川金山衆(くろかわかなやましゅう)は、保科、田辺、古屋、依田などの各氏により成る地縁的、血縁的なつながりが強い山師の集団で、武田家の招集に応えて戦に参加する在地武士団でもあった。

黒川金山衆は採掘の技術を活かした「もぐら攻め」で、信玄最期の城攻めとなった三河の野田城攻めを成功させた功労者としても、その名が知られている。

黒川金山衆に関する最古の文書は、田辺家資料として伝わる1560年卯月18日の『武田家朱印状』である。

この文書は、当時の田辺家当主が青梅街道沿いの小田原で問屋業を営むことを安堵されるという内容であり、黒川金山衆の田辺家は流通にも携わっていたことが確認されている。

山梨県公式ホームページ 山梨の文化財ガイド【田辺家古文書等一括】https://www.pref.yamanashi.jp/bunka/bunkazaihogo/bunkazai_data/yamanashinobunkazai_wc0055.html

武田氏滅亡後の黒川金山は、天正壬午の乱を経て甲斐を確保した徳川家康の手中に収められた。

勝頼が没した翌年の1583年に発行された徳川家による文書には、黒川金山衆が武田家配下時代に得た特権を、引き続き認める旨が記載されている。

田辺家の中で代表的な人物に、田辺庄右衛門がいる。
彼は武田信玄・勝頼父子に仕え、重臣・土屋昌続の与力として黒川金山をはじめとする鉱山開発や、武田家の税務行政に従事していた。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、鉱山奉行として名高い大久保長安(土屋長安)の用人を務めた。

16世紀後半には黒川金山の産出量は一時減少していたものの、武田氏滅亡後も閉山されず、17世紀初頭には再び産出量が増えて人口も再増加した。

慶長から元和年間にかけて、黒川金山を含む甲斐国内の鉱山は、佐渡金山にも匹敵するとされるほどの産出量を記録していた。

その後、1660~1670年代にかけては、黒川金山衆の一部が代々受け継いできた採鉱技術を携えて、信濃・秩父・出羽など他国の鉱山に採掘許可を願い出て活動の場を広げていった。
彼らは土豪として各地に根を張り、士分を得て甲斐国内でも勢力を強めていった。

「花魁淵」がある一之瀬高橋地区は、黒川金山衆の子孫によって拓かれた村であるという伝承も伝わっている。

画像:勘衛門とその子らが敷設を担当した笠原水道の岩樋 wiki c papakuro

黒川金山自体は金の枯渇のため、17世紀終盤から18世紀初頭の間に閉山したと推測されている。

甲斐の鉱山業の衰退後、黒川金山衆の出自と伝わる永田茂衛門とその子である勘衛門は、現在の茨城県常陸太田市域にある町屋に移住して、水戸藩の許可のもと鉱山経営を行っていた。

1645年以降、2人は武田家の旧臣で、当時水戸藩奉行だった望月五郎左衛門(望月恒隆)の推薦により、干ばつによる凶作が続く水戸藩領内の水利事業を担当することになる。

先祖代々受け継いできた金山採掘で培った土木技術を用いて水戸藩領内に多くの江堰・溜池を建築し、常陸の多くの地域を凶作の危機から救った。

永田氏の働きにより、水戸藩領内には豊かな穀倉地帯が広がるようになった。

永田氏はその業績を讃えられ、勘衛門は徳川光圀から「円水」の号を賜り、死去の際には光圀から「徳翁円水居士」の法名が贈られた。

さらに後の大正天皇即位の礼に際しては、勘衛門に従五位の位階が贈られたという。

伝説と史実の矛盾

画像:笠取小屋から見た黒川鶏冠山(中央)と大菩薩嶺(奥) wiki c Koda6029

「花魁淵」の伝説と史実には、多くの矛盾点が存在する。

伝説によれば、武田氏の金山奉行によって遊女の口止めが実行され、その存在を秘匿されたと伝わる黒川金山だが、前述したように実際は武田氏滅亡後に徳川家の手に渡り、江戸時代にも金の採掘が行われていた。

伝説に登場する金山奉行とされる「依田 某(なにがし)」は、黒川金山衆の依田氏に由来する名である可能性が高いが、依田氏を含む金山衆は武田氏滅亡後、秘密を守るどころか、甲斐を掌握した徳川家に仕えているのだ。

そもそも黒川金山の秘密を守るためというなら、金採掘の知識も技術も持たない寄せ集めの遊女ではなく、武田家から直々に鉱山開発の事業を任され、その後徳川家に鞍替えをした大久保長安などが、まず暗殺対象となるだろう。

さらに黒川金山遺構で1986年から4年間に渡り行われた発掘調査では、墓所跡や生活遺構は発見されたが、遊郭が存在したことを示す遺物は確認されていない。

現在「花魁淵」と呼ばれている淵については、明治10年頃に東京市の職員が水源地の候補地としてこの地を視察した際、その美しさに心を打たれ、「まるで花魁が綺麗にお化粧して夜店の前に出たようだ」と形容したことが、地名の由来として語り継がれるようになったともいわれている。

では、無念を抱えて淵で落命した者は存在しなかったのかと問われれば、一概にそうとも言い切れない。

画像:明治40年の大水害により被災した甲府市緑町(現、甲府市若松町)の惨状 public domain

花魁淵から約9km下流にある丹波山村には、激流に呑まれて落命した遊女たちの遺体を、村人たちが引き上げて供養したと伝わる祠がある。

その祠には、遊郭のやり手婆と55人の遊女を模した木像が納められ、村人たちによって供養が行われていた。

しかし、明治40年の大水害によって祠は流失し、長らくその姿を失っていた。のちに地元の人々の手によって再建が試みられ、1988年に「おいらん堂」として再建された。

おいらん堂に関する信憑性の高い資料も「花魁淵」と同様に少ないが、「花魁淵」の伝説が創作話だとすれば、なぜ丹波山村の人々は、わざわざ祠を建立して遊女たちを弔ったのだろうか。

現代よりもずっと命の価値が軽かった時代、武田家滅亡に伴う遊女の大量処刑が行われていなかったとしても、口減らしや事故、自害など、何かしらの理由で命を落とした人物の遺体が、上流から丹波山村に流れ着いていた可能性は否定できない。

時を経て、山梨屈指の心霊スポットとして有名になった「花魁淵」だが、現在「花魁淵」沿いを走っていた旧国道411号は立入禁止となっており、今後は山梨県によって廃道化工事が行われる予定で、厳重に閉鎖されている。

そのため現在では、一般人が「花魁淵」に実際に足を運ぶには、沢登りで到達する以外に方法がない。
かえってその困難さが、淵の伝説と相まって訪問者の興味をさらにかき立てている。

「花魁淵」の伝説には、ただの恐怖の都市伝説に留まらない深みがある。史実を知りその地で何があったのかを想像することも、歴史を深堀りする面白さといえるだろう。

参考 :
神沼三平太 (著) 『甲州怪談
朝日新聞社 (著)『茨城の科学史
今村 啓爾 (著)『戦国金山(かなやま)伝説を掘る: 甲斐黒川金山衆の足跡
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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娘に毎日振り回されながら在宅ライターをしている雑学好きのアラフォー主婦です。子育てが落ち着いたら趣味だった御朱印集めを再開したいと目論んでいます。目下の悩みの種はPTA。
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