戦国時代

関ケ原の戦い以降の毛利氏と明治維新

はじめに

毛利元就が中国地方を統一した後、1571年に病死した。

前回の記事 → 毛利氏―安芸の国人から中国地方統一まで―

毛利氏については元就の孫の毛利輝元が家督を継ぐことになるが、ここでは最初に輝元が家督を継いでからの戦国大名の毛利氏について取り上げる。次に、輝元が関ケ原の戦いでの敗北してからの毛利氏については、幕末の毛利氏と長州藩を中心に取り上げる。
※絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)

中国地方統一から関ケ原の戦いまで

毛利元就の死去に伴い、家督を継いだ輝元は、祖父元就の頃から抵抗していた尼子と大内の残党の鎮圧に成功し、勢力を拡大していた。その頃、織田信長によって室町幕府を追われた足利義昭を保護することにもなった。

輝元の代になると、織田信長との戦いで苦戦することになる。

まず、大坂の石山本願寺が挙兵したことに伴い、村上水軍を率いて信長軍と戦った。この戦いを第一次木津川口の戦いと呼ばれ、毛利氏は石山本願寺の援軍として村上水軍を率いて信長に勝った。その後、第二次木津川口の戦いで、信長は鉄甲船を用いて村上水軍と戦い、毛利軍と村上水軍は敗北した。この戦いで毛利氏の戦況が不利になり、備前国の宇喜多氏が織田方に寝返ったと言われている。


※織田信長軍が使用した安宅船

1578年に播磨国にあった上月城で輝元は尼子氏の残党豊臣秀吉の連合軍と戦うことになった。

この戦いで、尼子と豊臣秀吉の連合軍は上月城に籠城したが、秀吉は三木城の別所長治の反乱が起こったことにより退路が塞がれることを恐れて援軍に行けず、輝元が勝ったと言われている。
1581年、秀吉は三木城を兵糧攻めにすることや毛利からの援軍が来なかったことで、別所長治は降伏した。

この三木城での兵糧攻めを三木の干し殺しと呼ばれている。

1582年にも秀吉は鳥取城を兵糧攻めで落としている。この兵糧攻めで、毛利氏の名将と言われた吉川経家が自害した。鳥取城が落とされた頃、大友宗麟南条元続らが信長と通じて輝元を攻めていたと言われていることから、当時の輝元は周辺国の対応に苦労していたと思われる。

1582年に、毛利氏の家臣である清水宗治が備中高松城に籠城し、秀吉との戦いが始まった。この戦いを備中高松城の戦いという。

関ケ原の戦い以降の毛利氏と明治維新
※清水宗治像 落合芳幾画

※備中高松城の戦い 赤松之城水責之図/東京都立中央図書館所蔵

毛利輝元は小早川隆景吉川元春など総勢4万の軍で秀吉と対峙した。

この戦いで高松城を水攻めにしていたが、秀吉が本能寺の変を知ると、輝元は信長が死んだことを知ることなく和睦した。以降、秀吉政権の下で戦に参加することになる。

本能寺の変で豊臣秀吉が信長の跡を継いだが、輝元は秀吉の四国遠征と九州遠征に協力している。この頃に、輝元は毛利氏の拠点を吉田郡山城から広島城に移したと言われている。秀吉が小田原征伐で全国を平定してから2度の朝鮮出兵で3万の大軍を派遣したと言われている。

秀吉の死後、関ケ原の戦いでは西軍の総大将として大坂城に入った。関ケ原の戦いで西軍が負けると、大坂城から兵を引いた。

関ケ原の戦い後、中国地方から長門・周防の2カ国に削減され、長州藩として江戸幕府が終るまで続いた。

関ケ原の戦い以降の毛利氏―幕末を中心に―

毛利輝元が関ケ原の戦いで負けて、長門・周防の2カ国に大幅に減らされて以来、歴史上で毛利氏が出てくることがほとんどなかった。

幕末になると長州藩が注目されるようになる。幕末の長州藩の藩主は毛利敬親で、藩士からの意見に対して「そーせー」と反応していた人物で知られている。


※毛利敬親 Mouri Takachika.英国提督との記念写真より本人のみ抜粋した写真。

何も考えずに「そーせー」と言ったことから、毛利敬親をバカ殿と評価する人がいたが、最近の研究では若い藩士を信頼して「そーせー」と回答していたと考えられ、部下を信頼する優秀な藩主としての評価に変わりつつある。

幕末の長州藩は四国艦隊下関砲撃事件や幕府による長州征伐で何度も危機になったが、藩内での改革を進め、吉田松陰・桂小五郎(後の木戸孝允)・大村益次郎・伊藤博文など明治指針で活躍する人材を育成する藩になり、明治政府になってから日本の近代化に貢献したと言われている。

おわりに

この記事では中国地方を統一した毛利元就の家督を継いだ毛利輝元について取り上げた。

輝元が元就の後を継いだ頃、織田信長が東西から輝元に圧力をかけていたことから苦労していたことを知ることができた。信長が本能寺の変で倒れてから豊臣秀吉の政権下で四国征伐・九州征伐に参加し、秀吉の天下統一に貢献した。

関ケ原の戦いで西軍の総大将として参加したことから改易は免れないと思われていたが、中国地方8カ国から周防・長門の2カ国に削減され、改易を免れた。

江戸幕府になってからしばらくは歴史上の表舞台に出ることがなかったが、幕末になると長州藩の藩士が活躍し、やがて江戸幕府を倒して明治維新に貢献したことが分かった。
幕末の長州藩の藩主毛利敬親がバカ殿という評価をされていたが、部下を信頼して任せていた優秀な藩主であるという評価に変わっていると言われている。

今後の長州藩に対する評価について注目したい。

 

アバター

officehiguchi

投稿者の記事一覧

主に戦国時代を中心とした広範囲な知識の記述が得意

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 小田原の松原神社例大祭に行ってきた
  2. 商人の子から大名に大出世した・小西行長【加藤清正のライバル】
  3. 京極高次 〜光秀に味方したにも関わらず復活した大名
  4. 関ヶ原敗戦後も断絶を免れた毛利家、その鍵を握った『両川体制』とは…
  5. 可児才蔵【個の武には優れるもなかなか主君に恵まれなかった武将】
  6. 太田道灌について調べてみた【江戸城を最初に作った人物】
  7. 柳生石舟斎の無刀取りの秘技【岩を切った伝説】
  8. 戦国大名の家紋について調べてみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【ギネス世界記録】 40年間で69人の子を出産したロシア妻 バレンティナ・ワシリエフ

この投稿をInstagramで見…

『源氏物語』に登場する女性たちの人気ランキングベスト5

約1000年も前に、紫式部が生み出した長編小説『源氏物語』。主人公・光源氏を中心とし…

【光る君へ】 清少納言の後夫・藤原棟世とは、どんな人物だったのか?

随筆『枕草子』で平安文学を代表する一人となった清少納言(せいしょうなごん)。才知あふれる彼女…

島津義弘の晩年エピソード 「ぼんやり防止はコレが一番?鬼島津と恐れられた戦国武将」

泣く子も黙る鬼島津……そう異名をとったのは、薩摩国(現:鹿児島県西部)の戦国武将・島津義弘(しまづ …

KuCoin(クーコイン)の登録方法と使い方【持っているだけで毎日配当が貰える】

2017年はビットコインを始めとした仮想通貨元年と言ってもよい盛り上がりでした。しかし日本の…

アーカイブ

PAGE TOP